今の状況は、通り雨だろうと軽く見ていた雨が、本降りになって焦るのに似ていた。

 コートをしまうかどうかを迷ったことはすっかり忘れて、風に当たりながらのんびりする時間が一層心地よくなってきた頃だった。ぼんやりしたくなったスペインは、馴染みのバルに行くのは止めて――店の親父と盛り上がってしまうことが分かりきっているからだ――広場に面したオープンカフェに行った。そこで行き交う人々を眺めていたときに、女の子を連れて歩くロマーノが目に入ったのだ。
 行き過ぎた二人は、知り合いでなければ記憶に残らないようなありふれたカップルで、だからこそスペインは驚いた。ませていて、口ばかり達者で、いざ女の子が乗り気になると顔を真っ赤にしたり、戸惑ったりしていたロマーノが、気後れする様子もなく女性を連れて歩いている。
 衝撃が去ったあとに残ったのは、紙で手を切ったときのような、胃の辺りがざわざわするような感覚だった。スペインはその正体を確かめることなく、自分は寂しいのだと即断した。ボロボロになって帰ると嘲るために出迎えて、彼の弟にべったりしていると「またか」という顔をして、家を出てからも何彼に付け頼ってくるロマーノは、まだ自分を拠り所にしていると思っていたのだ。ショックを受けている自分を、まるで子離れできていない親のようだと笑った。

 誤りに気づいた時には、足はすっかり雨水に浸っていた。ざわめきが、はっきりと痛みに変わった胃を抱えながら、スペインは考える。ロマーノの存在は、悪い言い方をすれば保険で、もう少しマシな言い方をするなら故郷に残した家のようなものだったのだ。それがあるから無茶ができて、そのくせ顧みることはあまりない。拠り所にしていたのは自分の方だった。
 阿呆のように口を開けて見上げた空は、憎たらしいほどの晴天だった。



「……? どうしたん?」
「それはこっちの台詞だ」
 怖い夢でも見たのかと問いたくなるような不安げな顔は、一転して見慣れたふてくされた顔になった。よくよく見ると、カーテンの隙間から漏れる光は夜とはほど遠く、ロマーノも夢ごときに悩まされるような年格好ではなかった。状況を把握できず混乱気味のスペインに、ロマーノは追い打ちを掛けるように恨みがましい口調で言った。
「呼び付けといてなんてザマだ」
「……すまん」
 何のことか分からないまま、スペインが台本を読むように詫びると、ロマーノは吹き出した。
「まだボーッとしてんだろ」
 愉快そうに笑いながらスペインの髪をかき乱し、目を塞ぐように冷えたタオルを載せた。
「暑さにやられたらしい。もうちょっと寝てろ」
 そう言い残して、ロマーノは部屋から出て行った。
 タオルを額に引き上げ、とっくに消えたロマーノの気配を追ったスペインの目に、輪切りのレモンが浸されたピッチャーが映った。いつの間に置いたのだろうか。手回しがいいことに、手前に置かれたグラスには一杯目が注いである。スペインは誘われるようにグラスに手を伸ばした。
 自覚がなかっただけで喉はひどく渇いていたようだ。味わう暇もなくあっという間に空になったグラスをテーブルに置いて、ピッチャーを持ち上げる。普段は気にならない重みを感じるということは、相当参っているのだろう。口の中に広がる心地よい甘酸っぱさは、一杯目では感じられなかったものだ。グラスに半分残った状態で息を継ぐと、レモンの香りが鼻に抜けた。
「静かやな……」
 目を閉じると、水滴が滑り落ちる音も聞こえそうだった。


 スペインが再び目を覚ましたのは、日が傾いた後だった。
「一口食って、食えそうなら食え」
 ロマーノはスープとシチューの中間くらいの、粥のようにも見えるひと皿をテーブルに置いた。
 スペインは起きたばかりなこともあって腹は減っていないと思ったが、薦められるまま一口食べると、ロマーノが言った意味を納得して、二口目をスプーンにすくった。その様子を横目で見届けたロマーノは、テーブルに背を向けて、まるで自分の家にいるように自然に夕飯の支度を始めた。
「一段落ついたから声掛けたら、畑の真ん中で座り込んでたんだよ」
 木陰に避難させられ水を飲まされたと聞いても、スペインの記憶はあやふやなままだった。頭の中の情景は、記憶とも思えるし、ロマーノの口から聞いたことを想像したものであるようにも思える。ロマーノが担ぎ上げるには大きすぎる自分がベッドに寝ていたことを考えると、自分の足で歩いたはずなのだが、さっぱり思い出せない。
「もう暑さも引いてるし、今日は風もあったのに」
「熱中症やなくて、知恵熱やなぁ」
「考えることなんてあったのか」
 思わず、という調子で振り向いたロマーノは、嫌味のない、純粋に驚いた顔をしていた。
 スペインは苦笑いを浮かべて、コツリとスプーンで皿の底を突いた。
「はっ、柄にもないことして俺に迷惑掛けんじゃねーよ」
 反論したい気持ちはあったが、自分でも考えごとなんて久しぶりだと思っていただけに、どうしようもなかった。お前のことを考えていたなんて言ったら、ロマーノは変な顔をするに違いない。鍋を火に掛けるロマーノの手のしなやかさを眺めながら、スペインはグラスの水を口に含んだ。
「……年は取りたないな」
「いきなりなんだ? 上司みたいなこと言いやがって」
「若い頃は一人でぐいぐい好きなとこに行けたのに、今はそんな無茶できん」
「それは年取ったからじゃねーだろ」
「そうかなぁ」
 確かにたった一国で一つの時代を築けた頃と比べると、世界は煩雑になった。だが、今躊躇している理由は、世界の目を恐れているからではなかった。欲しているのは南イタリアの地なんて大きなものではないし、失敗して失うのも、スペインという国家を根底から揺るがすものではなかった。
 スペインがグラスの水を意味もなく揺らしている間にも、ロマーノは着々と調理を進めていた。
 ロマーノがキッチンに立つ姿は見慣れているはずなのに、なぜか懐かしい。スペインはグラスをそっと置くと、頬杖を突き、菜を切る音を聞きながら目を閉じた。
「ほんま好きやなぁ……」
「何か言ったか?」
「ん、言うた。俺なぁ、ロマーノのこと好きや」
「……そいつはどーも」
 スペインはロマーノの投げやりな返事を聞きながら、テーブルの上に組んだ腕に伏せた。
「ずっとこうしてたい。明日も、明後日も、ずーっと」
 くぐもった自分の声がテーブルに跳ね返される。蓋が閉められたのか、鍋が煮えるくつくつという音が小さくなって、間もなく足音が近づいてきた。下げられる皿の底がテーブルをかすかに擦る。
「飯はたまにしか作らなくていいんなら、こっちから頼みてーくらいだ」
 腹がふくれたおかげか、遠ざかっていた睡魔が再び手を伸ばしてきていたが、大きすぎる独り言に返された意外な返事を聞いて、スペインは思わず顔を上げてロマーノを見た。
「……ええの?」
「何が」
「俺と一緒に飯食うたり、畑作ったり、だらだらしたりするの」
「今だってしてるじゃねーか」
 ロマーノは何を言ってるのだとでも言いたげに眉を上げた。
「そやな」
 思わずスペインが肯定すると、ロマーノは皿を持ってシンクに戻ってしまった。


 手伝わせる気など微塵もないくせに、手伝う気がないならベッドに戻れと言うロマーノの指示に従ってベッドに戻ったが、ちっとも眠くなかった。ドアを開け放ったまま部屋に入り、廊下の向こうでロマーノが立てる音を聞きながら、抜け出した形が残ったままのタオルケットに俯せた。
「訳が分からへん……」
 彼の弟に結婚したいと言っていたら、自分はどうなるのだとロマーノに箒で叩かれた日を霞の向こうに見ながら、スペインはベッドから出した足の、脱げかかっている靴をぶらつかせた。当時と今の国力には相当の隔たりがあるし、意味するところも違うのだから、単純に比較はできなかったが、こんなにきれいにかわされるとは思いもしなかった。
 踏み続けたせいで踵がスリッパのようになった靴は、休息を求めてパタリと落ちた。

 シーツに体温が馴染んできたときになって、コン、と一回きりのノックの音が転がってきた。スペインは緩慢な動作で肘を立て、首を後ろにひねった。
「電話借りるぞ。弟に電話したい」
「イタちゃん来るのん?」
「……そうだな。ちょっと作りすぎたかも知れねーから」
 ロマーノはわずかに眉間に皺を寄せたが、すぐ何もなかったような顔に戻った。しかしその変転の一部始終をしっかりと目にしたスペインは慌てた。
「聞いただけや。呼びたいんと違う」
「でもヴェネチアーノが来たら嬉しいだろ?」
「うん」
「じゃあ呼ぼう」
「待って! ロマーノ勘違いしとる」
 ベッドから落ちるように降りて、床でひっくり返っている靴を起こそうとして蹴飛ばした。
「俺が好きなんはロマーノやねん」
「ヴェネチアーノも好きだろ」
「うっ、それは……でも、信じてやっ」
 ロマーノはひらひらと、気のない挨拶をするように手を振った。
「お前こそ勘違いしてんぞ。俺はスペインが俺を好きってことを疑ってるんじゃねーよ」
「そうと違う!」
「分かった、分かった。弟は呼ばねーよ」
「ロマーノ!」
 やっと靴を履いたスペインが、今にも回れ右しようとしていたロマーノに駆け寄って肩を掴むと、ロマーノはへらへらした笑いを引っ込めて、苦々しげに歯を食いしばった。仇に対峙するようにスペインを睨む。
「じゃあお前、俺とっ……クソッ」
 乱暴に言葉を打ち切って、手を振り払おうとするロマーノに、スペインは抗った。
「どっちも好きや! でも違うねん。俺が言いたいんは――」
「俺はスペインが好きだ。お前がこんなこと言い出す、ずっと前からな」
 ロマーノは穏やかに、しかし朗々と語った。意表を突かれたスペインの力が弛んだ隙にすっと身を引いて、室内でなければ聞こえないくらいの声で付け足した。
「解っただろ。俺は、今で十分満足してるんだ」
「ロマーノ……」
 足早に立ち去ろうとするロマーノに呼びかけるが、聞こえていないはずはないのに反応はない。スペインはもう一度呼んでみようとして開けた口を閉じると、考えようとする頭を振り、留まろうとする足を叱咤して、ロマーノを追いかけた。
「なあロマーノ、聞いてや。それやと俺は満足できへん」
「……お前話聞いてたか?」
「イタちゃんに電話して、俺から最近、結婚しよとか好きやとか恋人んなろって言われことあるか訊いたらええ。そのつもりやってんやろ? 納得できるまで確かめたらええねん」
 スペインは、気を取られまいとして更に足を速めるロマーノを追い抜いて、その手を取った。そして走り出す。驚くことも許されず、今度はロマーノがスペインを追いかける番になった。
「もしロマーノが俺のこと嫌いになったとしても、俺はロマーノのことが好きや。イタちゃんの時と違って、諦めたらへんで」
「このっ、止まれ! 放せこんちくしょう! 頭に詰まったクソ掻き出してやる!」
 走っているせいもあり、スペインの手を剥がすことがままならないロマーノは喚いた。
「優しいしたってやぁ」
 立ち止まったスペインは、自分を軸にしてロマーノをぐるりと振り回してから、ロマーノを引き寄せ抱き留めた。唖然としているロマーノの手が拳に変わる前に受話器を渡し、ダイヤルを回し始めた。



「なんもあらへん」
 ろくに眠れなかったスペインは、早朝こっそり家から抜け出して買ってきた新聞を、目を皿のようにしてスペイン・イタリア両国の国交に関するニュースを捜したが、ついに見つけられなかった。
「朝だこのやろー! ……なんだ」
 スペインは寝ていると決めつけていたらしいロマーノは、ノックなしに部屋のドアを開けて、目に飛び込んできた光景――広げていた新聞を何とか隠そうとするスペイン――を見て嫌そうな顔をした。
「起きてたなら飯作れよ」
「え、自分で作ってしもたん? 起こしてくれたらよかったんに」
「腹減ってたんだよ」
「あんなに食ってたのに」
 昨晩、もしかして食わせてくれないつもりなのかと不安になる勢いで飯を掻き込んでいたロマーノを思い出して、スペインはロマーノの顔を見つめた。猛獣の唸り声が聞こえそうな目つきで睨み返される。その目は心なしか腫れているように見えたが、スペインが確かめようとすると、ロマーノはぷいと背を向けた。まったく昨日から、ロマーノの背中ばかり見ている気がする。
「早く来いよ」

「なー、新聞には何も出てへんかったで」
 やけに手の込んだ朝食が並んだテーブルを見て、条件反射で出てくる涎を飲み込みつつ、スペインはまだ皿を出してきているロマーノに言った。
「あってたまるか」
「間に合わへんかったんかな。テレビはどうやろ」
「ねーよ」
「見たん?」
 盛大に舌打ちされて、スペインは「すまへん」と謝った。国民の生活に影響が出るなら撤回することも考えなければならないから、何も変わっていないことは歓迎すべきだった。クリームがたっぷりと挟まったコルネットは、まさかロマーノが焼いたのではないだろうが、聞くのは食べてからにしよう。

「せや、ロマーノは女の子が好きなんとちゃうの?」
「女の子はみんな好きだ。当然だろ」
 やっぱり目が赤いロマーノは、青空の下で今晴れていますかと聞かれたように、ぶっすりと答えた。