気だるさ通り越して体が重たい。もう少し寝ていようかと首を傾けて冷たいタイルに頬を当てたロマーノは、乾きかけの精液にまとめられた毛束が目元を擦る不快感を無視しきれず、諦めてのろのろと身を起こした。
 鉛の靴を履いたような足を引きずって部屋のドアまで来たところで、チャイムの音が鳴った。とても出られる姿ではないから、ロマーノはその場で静止した。足だか腰だかは判らないが、体の痛みのせいで長く立っていられそうにない。
 もう一度音が鳴る。
「兄ちゃーん?」
 ヴェネチアーノの声が聞こえた。
 ――ああ、居留守の意味がないではないか。
 ロマーノは合い鍵を渡したことを悔やんだ。やけに大きく聞こえた錠が角度を変える音が、隠れることを諦めさせた。ずりずりと壁に肌を擦らせながらへたり込む。ノブに手をかけた時に空締めが外れていたのか、部屋のドアがかちゃりと勝手に開いた。
「あれ? 兄ちゃんいるの?」
 細く開いたドアの隙間から顔を覗かせたヴェネチアーノは、ややあってから、足下に転がっているロマーノに気付いた。
「勝手に入ってごめんね? カントゥッチ作ったんだけど、作りすぎちゃって」
 麻痺した嗅覚では分からないが、たぶん部屋には生臭い臭いが充満しているし、そうでなくとも衣服はひどい有様だった。異常でないことなんて一つもないのに、ヴェネチアーノは常と同じように訪問の理由を告げた。目の前の事態に混乱しているのか、目を逸らしたがっているのか、それともボケているのか。
「食うから置いとけ」
 ロマーノは、考えることを放棄した。
「俺の分も持ってきたから一緒に食べていい?」
「……勝手にしろ」


 シャワーを浴びて部屋に戻ると、部屋はすっかり片付いていた。ベッドですると始末が面倒で困るから、比較的汚れを楽に落とせるキッチンを選んだのは正解だったが、それはロマーノ自身が片付けることが前提だった。
「おかえりー!」
「ああ」
「ドイツから貰ったカモミールなんだー」
 茶の支度をしていたヴェネチアーノは、蒸らし終えたらしいポットから茶を注いだ。
「お前……」
「服はとりあえず水に漬けてあるけど、どうする?」
 衣服と床を汚していた、男なら一生見ることがなくても不思議ではない、他人の精液。それを弟に触らせてしまった。ロマーノは胸の痛みに表情を歪めたのに、ヴェネチアーノは何でもないように笑っていた。
「後は俺がやるからそのままでいい」
「じゃあ早く食べよ!」
 お前の作ったカントゥッチは食べないと逃げるのかと言いたくなるほど急かされて、ロマーノは席に座った。言われるままに口に運ぶ。
「おいしい?」
「普通だな、普通」
「へへー、それっておいしいってことでしょ?」
 今日は俺が作ったから次は兄ちゃんがお菓子作ってね、と勝手な約束を取りつけられる。
 その日のヴェネチアーノは、いつもよりも早口だった。


 ***


 部屋に入ったヴェネチアーノは、真っ先に窓を開け放った。乾いた新鮮な風が、古く湿っぽい空気を押しのけて流れ込んでくる。差し込む光はちらちらと舞う埃をライトアップしたが、窓に背を向けて横たわっているロマーノの眠りを妨害することはなかった。
 いったい何人と何回すれば、触れることをためらうほどの体液にまみれることができるのか、見当もつかない。ヴェネチアーノの複雑な思いなど知らず、ロマーノは精液でカピカピのシーツに頬を寄せて、平和そうに寝息を立てている。
「兄ちゃん起きて」
 ヴェネチアーノは体を揺さぶった。頬に残る水跡は、涙の跡だけではなさそうだ。
「ん……む……」
「起きてったら。寝てちゃだめだよ」
「んだよ……まだやんのか?」
「俺だよ兄ちゃん、ヴェネチアーノ!」
 寝言にしても惰性にしても悲しくなる応答に、堪らず大声で叫んだ。
「ばか弟……?」
 寝返りを打とうとしたロマーノは、口をへの字に曲げた。
「ちくしょうあいつら、もうヤらせてやらねぇ」
 ロマーノの尻の間からひょこりと出た輪状のものと、そこに結び付けられ垂れ下った荷札に似たタグ。活字で印字された『ご使用後はしっかりと栓をお締めください』という一文を判読して、ヴェネチアーノは見たことを後悔した。
「抜かないとー……だめ、だよね?」
「……シャワー浴びるついでに始末してくる」
 ロマーノは「このまま抜くのは辛い」と苦々しい顔をした。肘をついて上半身を起こそうとして、困惑した顔で動きを止める。思い通りに動かない腰を睨む。
 舌打ちでもするかと思いきや、長い息を吐いた。
「ここでやるから、お前は外出ろ」
「えっ、だって兄ちゃん」
「これだけ汚れてれば同じだ」
 ベッドに目をやるロマーノの横顔は疲れ切っている。
「悪いけど戸棚に」
「俺が連れてくから掴まって!」
 指示を遮って手を差し出す。
「……汚れるぞ」
「いいよ、平気」
 ヴェネチアーノは覆い被さるように脇の下に腕を回した。肺に染み付きそうな臭い。ロマーノを慮って息を止めこそしなかったものの、呼吸を浅くせずにはいられない。
「お前は不快でいろ。絶対に慣れるな」
 嘘がばれたことよりも自嘲を含んだ声に胸が苦しくなったヴェネチアーノは、腕に力を入れることで震えをごまかした。


「ご飯食べてる?」
「タンパク質は足りてる」 
「だめだよちゃんとおいしく摂らないと」
 いつか見た日よりも薄くなった体を流しながら、冗談に笑う。着たままの服が濡れるのは気にならない。ロマーノは一人にしておくとシャワーの湯にさえ溺れてしまいそうに見えた。どれだけ嫌な顔をされても、ヴェネチアーノは手伝うという申し出を取り下げなかった。
 膝を折り曲げて体を屈めたロマーノは、ヴェネチアーノが脱いで渡したシャツを噛んで、タイルの上に組んだ腕に顔を伏せている。腰でも背中でも縋り付けるものを貸したかったが、そうすると作業が上手くできそうになかった。
 流水音以外の水っぽい音と、シャツが殺し切れなかった声が耳を侵す。ヴェネチアーノは怠けているとしか思えないシャワールームの換気扇の音を聞き取ることに集中した。
「痛かったらごめんね」
 右手の指をリングに掛けて、左手を尻に添える。ヴェネチアーノは、この時ばかりは、女の子に散々ムードがないと言われている自分を良かったと思えた。
 内側から肛門を開いてずりずりと這い出てくるそれは、なだらかに直径を広げ、やがてレモンのような形状が明らかになった。レモン型の先がくびれて終わったかに思えたが、引っかかるような抵抗を感じた。手が滑らないよう尻を掴む指に力を込めて、ぐっと引っ張った。
 器具はまぬけな音を立てて抜けた。抜け出たタマネギのような形状の先端に遅れて、くぱりと口を開けたままの尻穴から、見も知らぬ男の精液がどろりと流れ出して、床を流れる湯に巻き込まれ、排水溝に吸い込まれていく。
「兄ちゃん」
 震えている背に手を触れる。ヴェネチアーノが感じている暑さが嘘のように冷たい。
「兄ちゃん!?」
「い、た…」
「大丈夫? 俺どうしたらいいの?」
 ヴェネチアーノは泣きそうになりながら、伏せているロマーノの体を引っ張り起こそうとした。脱力しきった人間の体は重たい。
「お腹いたい……」


「忘れろ」
「心配しなくたって言いふらしたりしないよ」
「いいから忘れろ」
 汁まみれで異物まで入れられて寝入っていた件については弁解も釈明もせず、ロマーノは忘却の重要性を説いた。あまりに必死な様子はおねしょを見とがめられた子供のそれに似ている。事実状況は似たようなものではある。
 本当に食べていないらしく大したものではなかったし、ヴェネチアーノが詰問したくて仕方ないことに比べれば、誰にだってある生理現象なんて些末なことだ。だから、直後のロマーノの涙の原因は別のところにあると考える方が自然だった。
「ところで今日、何か約束してたか?」
 珍しく黙りこくって見つめてくるヴェネチアーノの視線から、自分が何か忘れているのかと、少し気まずそうにロマーノは目を逸らした。
「ううん。兄ちゃんちのレモン分けて欲しいなって思って来ただけだよ」
「それなら畑から勝手に取ってきゃいいだろ」
「久しぶりに兄ちゃんの作ったレモンケーキが食べたくなっちゃった」
「お前に作ったことあったっけ?」
「さあ、忘れちゃった。でも作れるでしょ? 作って欲しいなー!」
 今日の一件を借りだと思っているロマーノが断れないことを知っていて、ヴェネチアーノは兄の盛大な舌打ちを受け止めた。