「え……イギリスの家ってこれなん?」
立ち竦み絶句するスペインに、フランスはぽりぽりと後頭部を掻いた。その脳内では、初めてスペインがフランスの家を訪れた時の反応がフラッシュバックしている。二人の目の前に佇むのは豪邸と称しても何ら差し障りのない立派な邸宅だ。スペインが住んでいる、風呂なしで辛うじて流し台とトイレだけはあるようなアパートとは比べようもない。
「じゃ、俺はここまでな」
「ええっ、一緒に来てくれるんやないん?」
「だから一緒に来ただろ。俺はイギリスには会えない。あいつの性格考えてみろよ」
今日、イギリスは学校を休んだ。理由は体調不良。教師にはぼかして伝えられた実の欠席理由は、賞味期限切れの缶詰を食べたことによる食中り。イギリスに食事を出したスペインと、スペインから相談を受けて家までの案内を買って出たフランスだけが知っている事実。
「食中りってかっこ悪いかな」
「症状がな。俺に言ったってバレたら殺されるぞ」
「俺も同じもん食うてんけどなあ」
「お前は耐性できてるんだろ。缶詰の期限切らすとかどんだけ放置してたんだよ」
「ホールトマトやから元々そんなに長くなかってん。使い切ったと思ってたのが奥から出てきて、古いのから使う方がええと思って」
スペインの歯切れの悪さは、責任を感じているからというよりも、賞味期限切れの食品を食べたくらいで腹を壊すなんて信じられないという気持ちかららしい。フランスは今だけイギリスを気の毒に思った。
「とにかく俺は帰るから後は一人で頑張れ」
イギリスの家に上がったスペインは、玄関の広さよりも何よりも、出てきたイギリスの出で立ちに驚いた。寝巻きか部屋着か、とにかく楽な服装でいるものと思っていたのに、きっちりとボタンを上まで留めたシャツに細身のパンツという、体調の悪くない時であっても窮屈そうな服装で出迎えられたのだ。
「寝てんでも大丈夫なん?」
「そう思うなら来るなよ」
「なら家に入れへんかったら良かったやん」
「人を電話で起こしといてよく言うな」
「じゃあ、今まで寝とったん?」
スペインの質問に、イギリスはむっと口を噤むと視線をさ迷わせたが、答えないままに顎をしゃくって後について来るよう促すと背を向けた。
「なんや、ちゃんと寝てたんやな」
「……拘るな」
「んーん、安心してん。後ろ、寝癖ついとるで」
スペインの発言にイギリスの肩は目で見て分かるほど強張る。
さっさと力を抜いて何もなかったように歩き続けようとしたイギリスは、頭に触れた感触に、今度こそ露骨な動揺を隠せなかった。顔を後ろへ振り向ける。
「ほら、直ったで」
手櫛でイギリスの髪を梳いていたスペインは満足そうに笑った。
通した応接室で、部屋の広さとは相反して小さく椅子に腰掛けるスペインに釣られるようにして部屋に息苦しさを感じたイギリスは、ティーセット片手に部屋を移した。イギリスの私室に入ると、見せるための装飾がないからか、スペインは氷が融けるように表情を和らげた。
「気ぃ使わんでええのに」
「別に使ってない。あそこまで顔に出されるとこっちも居心地悪いからな」
イギリスは右手でカップ、左手でスペインが届けた学校のプリントを持ち、視線はプリントに印刷された文字に注いでいる。おおよそ客人を迎える態度ではないが、スペインは客のつもりで来たのではないから不快に思うはずもなく、初めて見る私服姿のイギリスや、部屋の方が気になるようだ。多少は遠慮しているのか、視線だけをあちらこちらに珍しげに動かしている。
「変なこと聞くねんけど、イギリスってどこで寝てるん?」
「は?」
「ここ自分の部屋やって言うたやん。でも机しかないで?」
何を言っているのかと問いかけて、先日訪れたスペインの自宅での出来事を思い出して、イギリスは一人合点した。一部屋しかない彼の家で、どこで寝るのかと聞き、押入れから出されたぺらぺらの布団に驚いたのだった。口をついて出た一言で、スペインの機嫌を傾けてしまったことも記憶に新しい。
「寝るのは別の部屋を使っている。二つ隣だ」
「別なんや」
「ああ」
「すごいなー。こんだけ広いと掃除とか大変と違う?」
「俺はやってねーよ」
「あれ、そうなんや。俺勝手に一人暮らしやと思ってたわ」
「なんでだ?」
「玄関に全然靴ないし、生活臭っていうん? とにかく、人の住んでる感じがせぇへんかったから」
「一人暮らしみたいなもんだ。親はどっちもほとんど家にいないし、兄貴達は独立してる」
「ふーん。じゃあ誰が掃除してるん?」
「ハウスキーパーに頼んでる」
スペインはイギリスの発した単語を咀嚼するように口の中で呟くと、与太話を聞かされたかのような顔をした。ハウスキーパーという存在はスペインには現実味がなさすぎたらしい。
予想外ではないが予定外の反応に、イギリスは話題の転換を試みようと振るべき話題を頭の中に求めが、友達間の会話というありふれたケースへの対応策は用意されていなかった。
己が身の悲しさに浸る暇もなく、新たな質問が投げかけられる。
「イギリスはこんな広い家で、一人で、寂しくないん?」
質問を理解すると同時に、イギリスの頭はその答えを模索することを拒否した。
今二人の目の前に並べられているティーカップは六客組だったが、六客全てが机に並んだことなど覚えている限り数度しかない。そしてそのいずれの時も、イギリス個人の客ではなかった。
「……お前は、どうなんだよ。正真正銘の一人暮らしだろ」
丸のまま問いを投げ返したのは、スペインの答えを知りたかったからではなく、単に質問を回避するためだったのに、拍子抜けするほどスペインはあっさりと答えた。
「寂しいで」
そして、そこから続けられた言葉にイギリスは、自分の胸の内と向き合わざるを得なくなった。
「せやからイギリスがうちに来た日も夕飯食うて行かへんかって聞いてんやん。朝は急いでるから気にする暇なんかなくて、昼は学校かバイトやから絶対に誰かおる。けど、夜だけは誰もいてない」
瞬きする間に顔つきがころりと変わるほどの豊かな表情はどこへ消えたのか、目の前に座る男は全くの無表情だ。イギリスの視線にスペインは思い出したように表情を変えた。細めた目と弧を描いた唇。それぞれのパーツが形作った表情は確かに笑顔だったが、その表情を笑顔とするのならば、スペインが学校で見せる表情はなんだというのか。
暗いスペインの瞳の中に、普段自分が見ている光景――ただいまと言うだけ酸素が無駄な明かりの灯らない家。朝から変わっているのは時計の針の位置だけ ――が映っている気がした。
見続けるのが辛くなったイギリスは、顔を背けた。
いかんともしがたい沈黙の中、浮かび上がった言葉をぽつりと口にする。
「だったらうちに来たらいいじゃねぇか」
「え? イギリス今なんて」
「だからうちで食べたらいいじゃねぇか。俺も普段一人で飯食ってるし、というか、料理得意じゃないからお前が作ってくれるならありがたいし。交通費と材料費はこっち持ちで、」
「イギリス、ちょっと」
「手間賃が別に必要だってんなら払っても」
「ちょっと待ってぇな!」
塞き止められていた水が流れ出すような速さで話し出すイギリスを、スペインは立ち上がって声を張り上げるというやや力技に寄ったやり方で止めた。イギリスは、話を遮られたことに憤るよりも、スペインの表情が知ったものに戻っていることに安堵することを優先した。
「なんだよ、何か不満か?」
「不満も何も、いきなりすぎるわ。自分で何言ってるか分かってへんやろ?」
言われたイギリスは、寝ているところを叩き起こされたような顔でスペインの目を見た。スペインもその目を、自分とはまた質の違う緑色をした瞳を見つめ返す。
二人は、同時に吹き出した。
「あー…馬鹿なこと言った。すまなかったな」
「ええよ、俺も柄にもないこと言うてたわ」
「お前も寂しいとか思うんだな」
「お前もってことは、イギリスも思ってたんや?」
「ばっか、そんなわけあるか!」
「ほんまかぁ?」
にやにやと、スペインはフランスにそっくりに口端を歪めたが、今にも殴りかからんばかりに顔を険しくしたイギリスを見て、慌てて表情を取り繕う。
「けど、俺がイギリスの家に出張して飯作るってのは名案やと思うで」
「へぇ。だったら今日の夕飯頼んでもいいか?」
顰め面か皮肉めいた笑いが常のイギリスには珍しく、素直に嬉しそうな顔で提案する。
「ええで。バイト休んだから家帰っても暇やからな。俺も食うてってええねんやろ?」
もちろんだと頷いて、イギリスはスペインをキッチンへ案内すべく席を立った。引き寄せた盆の上に、空になったカップと、ティーポットとシュガーポットを手早く乗せて、部屋の出入り口へと向かう。その間、スペインは立ち止まったまま、フランスに教えられた重大なことを思い出そうと首を捻っていた。
怪訝な顔で振り向いたイギリスは、自分に向けられたスペインの硬い表情にたじろぐ。
真剣な表情のスペインは、子供に言い聞かせるように噛み砕いて言った。
「料理は俺一人でやるから、イギリスは大人しく座っててな?」