町に野菜を売りに行った帰り、突然の大雨に見舞われたスペインは、途中で見つけた廃屋じみた館に逃げ込んだ。敷地内に茂った雑草や、押せば簡単に開いた扉もさることながら、稲光が照らし出した室内は荒れ放題。廃屋のようだと思ったのは間違いではなかったらしい。
 スペインが雨に濡れた外套を脱いだその時、一際大きな雷鳴が轟いた。
「ひぎゃああああ!!!」
「!?」
 雷鳴よりも、突然上がった悲鳴の方に驚いたスペインは、高鳴る心臓をなだめつつ、悲鳴の主を捜してきょろきょろと辺りを見回した。
「……誰かおるん?」
「ひっ」
 がさりと何かが動く音。どうやら先客がいたらしい。
「驚かしてすまへん。怪しいもんとちゃうんです」
 この急な雷雨では、自分以外にも雨宿りの人間がいてもおかしくはない。スペインは相手も怪しい者ではないことを祈りつつ、声が聞こえた方向の闇を探った。折良く、空に稲妻が走る。
 大きな階段の傍に、守るように頭を押さえた小さな人影が見えた。
「来んなこのやろう!」
 向こうからもこちらが見えたらしい。聞こえた声は思いのほか幼い。
 近づかないでおくべきか。スペインは歩みを止めてはみたが、いつまで続くか分からない雨の中、だんまりで距離をとり続けるのも居心地が悪い。それに、声の主はどう考えても怯えているのだ。
「大丈夫やで。何もせぇへんから」
 ゆっくり、ゆっくり。スペインは少しずつ歩み寄った。
 闇に慣れてきた目で見ると、声の印象の通り、相手は少年のようだった。先の大音を最後に雷鳴は遠ざかり始めているが、それでもまだ怖いようで、丸まるように膝を胸に寄せて、音が鳴るたびに頭をぎゅっと抱え込む。雷が嫌なら耳を塞いだ方がいいだろうに。
 一歩分の距離を残して、スペインは床に腰を下ろした。
「……?」
「これ以上は進まへんから安心し」
 卑怯かと思ったが、見知らぬ少年を抱いてあやすほどの義理はない。スペインは来るなら来いというつもりで軽く腕を広げた。
 少年は迷っているようだ。それ自体が光っているように鮮やかな瞳の色が、伺うようにじっと見てくる。
 やがてぽつりと言った。
「……動けねーぞ、ちくしょう」

 抱き寄せた少年の体はがちがちに固まっていた。
「笑うなよ!」
「すまん」
 声ばかりが威勢良く少年は抗議する。スペインは声を殺していたのだが、密着しているせいで振動が伝わってしまうらしい。スペインは下ろさせた腕を揉んで解してやりながら、なぜ少年がこんなところにいるのかと考えた。町と、村の間。子どもが遊び場にするにはどちらからも離れている。
「なんでこんなとこにおったん?」
「はぐれたんだ」
「そりゃかわいそうに。怖かったやろ」
「……別に」
 この年頃の男の子は例え怖くても見栄を張ってしまうものだ。スペインにも経験があった。羊飼いに狼の話を聞いて、一度見てみたいとこっそり小屋に泊まったこともある。大人に見つかってつまみ出されたおかげで、牧羊犬と狼の闘いは見られなかったが、あの夜の胸の高鳴りは今でも覚えている。
「冒険ってええよなぁ」
 ぐいっと少年の頭を抱き寄せたスペインは、奇妙なものに気づいた。
「……何これ?」
 泥で固まった髪か。それにしては軟らかい。
 スペインはそれによく似た、いや、ほとんど同じものを知っていた。
「う……変な感じするから揉むな」
 手の中から逃げた「それ」は、まぎれもなく獣の耳だった。
「……」
「ひゃっ」
 スペインは改めて、少年の「耳」をつまんだ。指でなぞって形を確かめ、内も外も余すことなく撫でる。手から逃れようとする動きは作り物ではありえない。外側の毛は滑らかで、内側の根元あたりに生えている毛はふわふわと綿毛のようにやわらかい。
「くっ、この……触るなって言ってんだろ!」
「おぐっ」
 正体を確かめるつもりが夢中になって触っていたスペインは、頭突きを食らってのけぞった。

 スペインからいくらか距離を取って座った少年はしきりと耳を掻いている。足元に巻き付けられているのはどうやら尻尾らしい。ふさふさした尻尾は、スペインが見つめると少年の背後に隠された。
「なぁそれ」
「断る」
「まだ何も言ってへんやん」
「うるせー。お前のせいで痒くなっちまっただろうが」
 表情が硬いのは警戒しているせいで、雷の恐怖からはすっかり立ち直ったらしい。いつの間にか雷の音は消え、雨音も穏やかになっている。目が慣れたこともあるだろうが、雲も薄くなったようで、視界は少し明るくなっていた。
 しかしその明るさがそう長く続かないことを、スペインは理解し、そして危惧していた。もう秋も終わりに近い。ここで夜を明かすとして、空腹は一晩なら耐えられるが、服を完全に乾かせないまま過ごすことは、避けた方が賢明だった。ということは急いで村まで戻るしかないのだが……
 スペインは少年の方を見た。睨まれたが、気にせずに問う。
「はぐれたって言うてたけど、どっか行く途中やったん?」
「狩りを教えてもらう予定だったんだ」
 警戒していたことも忘れたように、少年は誇らしげに胸を張った。


 村は夜だというのに騒然としていた。手に手に武器――多くは農具や丈夫そうな棒で、銃を手にしている者はごくわずかだ――を持って、男たちが動いていた。何があったのか、聞かなくても分かっている。少年が話した目的地はこの村の牧場だった。
「おったで!」
 スペインが手近な人間に話しかけようとしたとき、すぐ後ろで声が上がった。
 声がした方を見ると、カンテラの光を浴びた少年が立ちすくんでいた。
「あかん!」
 スペインは飛び出した。矛先を向けられてもなお突っ立っている少年を地面に引き倒す。あれだけ言ったのに、どうして付いてきてしまったのだろう。
「よぉやった、そのまま押さえとけよ!」
 熱を帯びた場の空気は、普段の彼らを知っているだけに異様だった。
「子どもやないですか!」
「せやからなんやねん」
 スペインが抗議すると男は呆れた顔で言った。
「そんだけ小さかったら狩りもできへんやろ。ガキだけ逃がしたって野垂れ死にすんのがオチやし、生き延びたら生き延びたで牛やら羊やら狙ろて来るやないか」
「何言うて……」
 スペインは途中で口をつぐんだ。腕の中で今にも泣きそうになっている少年は、スペインの目には、耳と尻尾が生えている以外は人間の子どもにしか見えなかった。しかし自分は少年がはぐれたと言っていた相手が何者かを知って、急いで村に戻ったのではないか。
 男の口ぶりからすると、少年の親やそれに類するものはすでにいない。それに関してどうこう言うつもりはない。近くに潜んでいるかもしれない生き残りを捜すことも含めて、当然のことだ。スペイン自身も少年に会っていなければ加わっていただろう。
 スペインは感じてしまった憤りを押し殺した。
「……俺が責任持って飼いますさかい、堪忍したってください」



 昨晩のことが嘘のような、気持ちのいい朝だった。
 いつもなら野菜を積んだ荷台を引いているロバは、今日は背中に直接荷物を乗せている。包みの中身は食料がほとんどで、あとはどうしても必要な生活道具が少し入っているだけだ。
「ふわぁ眠た……っととと」
 荷物を背負ったまま伸びをしたスペインは、危うくひっくり返りそうになり慌てて背筋を伸ばした。急と言うほどの斜面ではないが、こけたらたぶん転がって行けるだろう。
 スペインは今来た道を振り返った。村の屋根や牧草地はまだ小さく見えていたが、遠くまで眺めてみても、雨宿りに使った館は見えなかった。
「……なぁ」
「おっと、すまん。行こか。しんどなったら言うねんでー」
「歩くのは得意だ。それよりお前……」
 少年は仏頂面をさらに歪ませて俯いた。
「へーき、へーき」
 スペインは少年の頭を撫でた。少年の姿は、一夜明けても狼に見えるようにはならなかった。人間の子どもの体に狼の耳と尻尾が生えているように見えるし、触って確かめてもそうだった。
「……忘れとった」
 歩きだそうとしたスペインは、再び歩みを止めた。
「名前何て言うん?」