時計の振り子が当たり前に規則正しく振れる音。耳に入ってくるその音を拒まずにいると、だんだんそれしか聞こえなくなって、仕舞いに頭はその音を追うだけになる。
またひとつ、針が動いた。
***
ボーン、と時を打つ音。
その音が最後のひとつだったらしく、柔らかな余韻が空気を震わせている。
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
ぬるく甘い空気の層を纏っているような感覚。
それを振り払うように伸びをしながら深呼吸すると、毛布が肩から膝へ滑り落ちた。
「……ん?」
毛布を手に取る。体温が移っていて温かい。
「おはよう、よお寝れたか?」
「なっ!」
一気に覚醒した。
向かいの一人掛けのソファーに、いつ来たのかスペインが座っている。
「ごめんなあ、遅れて。上司に捉まっててん」
許したって? と、両手を合わせた。
しかし、ロマーノの頭にはスペインの遅刻のことなど毛筋ほどもない。
「スペインッ、いつからいたんだよ!」
「ロマーノがこっくりこっくりし始めた時くらいからかなあ」
「起こせよ! こっちはお前待ってたんだぞ!」
「いやな、俺が入って来てもロマーノ気付かんかったから、驚かしたろう思てたら寝入ってしもてんもん。あんまりスヤスヤ寝てるもんやから起こすの可哀相やしもったいないしで今まで待っててん」
ロマーノは毛布を握り締めた。目の前にある机が背の低いガラス製のものでなければ、力いっぱい拳で叩いているところだ。
「ほんま寝顔だけは子供の時のまんまやなあ。うーん、でも今でも何かにつけて子供っぽいか」
スペインはカップにコーヒーを注ぎながら独り言のように言う。
ついさっき用意されたのか、ポットが保温性なのか、コーヒーからは湯気が立っている。
「……バカするために呼んだのか?」
「まさか。ちゃんと用事やで。今から話そか?」
スペインは背に立てかけていたファイルからバサリと紙束を取り出した。
「後でいい」
遠目から見てもびっしり文字で埋まっていることが見て取れる書面に顔を顰めたロマーノに、スペインは笑って紙束をファイルにしまった。
「そういやロマーノ、まだスペイン語覚えててくれたんや」
「忘れてたら何で俺がお前と話せてるんだよ」
「でも俺と話す時に使ってくれたこと一回もないやろ。分かっても話されへんと思っててん」
「……待てよ、じゃあ何で話せるって知ってるんだ?」
「え? だって、今日軒先で花の手入れしてたうちの女の子と話してたやん」
スペインはきょとんとして、カップに伸ばしかけた手を止めて言う。
「仕事してたんじゃなかったのか!?」
「あの時はまだ暇やって、ロマーノが来ないか窓から通り見てたからな。ロマーノが油売らんとすぐ来てくれてたら上司に捉まらんと済んだのに……。あ、残念やけどあの娘は旦那持ちやで」
「それは本人から聞いた」
ロマーノは若干不機嫌に答える。
「ナンパしようとして釘刺されたんやろ。相変わらずそんなとこだけは行動早いな」
「うるせえよ」
図星を突かれて不機嫌さを増したロマーノに、棘を含んだ語調で返されても、スペインは気にも留めずくつくつと楽しげに笑った。
「でも嬉しいわ。もう忘れてしもてると思てたから」
息を長く吐いて笑いを収めてから、スペインは懐かしみの混じった微笑を浮かべる。
「スペインは、俺が完全に忘れてたら標準語で話すのか?」
「そりゃそうやな。実際、フランスとかイタちゃんにはそうしてるし。この辺でスペイン語使うんはロマーノ相手の時だけやな。ロマーノがそうして欲しいんだったらそうするよ?」
最後だけ、わざと標準語にした問いかけ。
「……別に、いい」
***
「終わったー!」
「面倒だから後回し」を繰り返したせいで、書類が片付く頃にはすっかり日が傾いていた。
「腹減ったぞコノヤロー」
「今すぐ何か作って食おか。な、寝てんと手伝ってや」
「寝てねぇよ。さっきまで寝てたから眠くない」
疲れてはいるものの、目はしっかり冴えているロマーノは、頭を背もたれに預けたまま文句を垂れた。
「やっぱりあんな半端な時間に寝たらあかんで。夜なっても寝られへんかったらどうすんねん」
「誰のせいだと思ってんだよ」
スペインが時間通りに顔を出していたら、寝顔なんか見ていないで起こしていれば、転寝から本格的に寝入ってしまうことなどなかったのだ。
自分が女の子と話し込んでいたことは棚に上げて、ロマーノはここぞとばかりに文句を言う。
「えー、俺の責任なん?」
「どう考えてもお前のせいだぞ、ちくしょうが」
スペインは少し困った顔をした。これで晩飯からデザートまでスペインが一人で作るだろう。運が良ければちょっとしたお菓子付き。子供の頃から繰り返したこの展開は、ロマーノには慣れたものだ。
頭の中で立てた道筋に満足していたロマーノは、ソファーからやや乱暴に引き起こされて驚いた。
「せやったら、お望みどおり眠ってまうまで付き合ったるわ。今日は泊まって行き」
「……え!? ちょ、ちょっと待てよスペイン!」
予定外の展開に、ロマーノは慌てる。見慣れたはずのスペインの「仕方ないな」という笑顔が怖い。
スペインは、逃がさないとばかりにロマーノの腕をしっかりと掴んだ。
「心配せんでもご飯は作るで。しっかり食うとかんとお腹減るからなあ。飯、風呂、ロマーノの順番な。まったく、子供の時から変わってへんとこばっかしやけど、これだけは昔とちゃうなあ」
ロマーノを引きずるようにして台所へ向かって歩き出す。
何とか抗おうとするロマーノの声を、半を知らせる鐘が打ち消した。