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牡牛座のギリシャ神話パロディです。
配役:スペインがゼウス、ロマーノがエウロペ。女体化ではありません。

 海岸近くの丘で、ロマーノは花を摘んでいた。いや、毟っていたという方が正しいだろうか。花束を作るでもなく占いをするでもなく、憑かれたように花を手折っていた。
「ちくしょう、じいちゃんのバカ」
 最後に食べようと取っておいたトマトを祖父が食べてしまったのだ。トマトが好物だと知っているくせに断りなく食べた上に「お腹でも痛いのかと思った」と慌て謝る祖父も祖父だが、弟が「俺のあげるよ」と自分の分を差し出したものだから堪らない。祖父は弟を褒め始めるし、控えの者もできた弟だと嘆声をもらした。これでは自分が駄々っ子ではないか。
「バカばっか!」
 摘んだ花を放り捨てるとさして飛びもせずにぽとぽとと落ちた。苛立ちのままに体を地面に投げ出したロマーノは、逆さまの視界にぬっと入り込んだ黒く大きなものに悲鳴を上げた。
「ひいっ! な、なななな、何だよちくしょう!」
 とっさに身を起こしたが余計にそれとの距離が近くなって、ロマーノは動けなくなった。目すら動かせないままでいると、相手の方が先に動いた。
「……牛?」
 真っ黒な牛は危害は加えないと主張するように身を引いて座ると、尻尾をぱたりと振った。闇を織ったような真黒な毛並みと夜の海を凝縮したような角。
「脅かしやがってコノヤロー」
 硬直が解けたロマーノがぶんと拳を牛に向かって突き出すと、牛はのそりと立ち上がった。ロマーノはびくりと震えて腕を体に引き付けた。目をきつく閉じて身構えていると、頬に柔らかいものが触れた。恐る恐る目を開ける。牛がじゃれるように鼻先をこすりつけていた。夏に入る直前の若葉にも似た瞳に自分が映っていることに気付いたロマーノが見つめ返すと、牛はぺろりとロマーノの目元を舐めた。
「泣いてなんかねーよ、ばーか」
 ロマーノは笑って、牛の頭をわしゃわしゃと撫でた。

「――な、ひどいだろ。そりゃ弟の方がよくできるし、俺は不器用で失敗ばっかりしてるけど、ちょっとくらい期待してくれたって……ああいや、弟を立てるのも疲れるよな!」
 物言わず寄り添ってくれる牛に、ロマーノは花を編みながら延々と話し続ける。口と手を止めた時には、花の帯はネックレスにも長すぎる長さになっていた。
「聞いてくれた礼に半分やるよ」
 帯を二つに分けて輪を作ると、大きい方を牛の首にかけてやる。ところどころ歪になっているが、ロマーノは満足そうな顔をした。牛は首を伸ばしてロマーノの膝にあるもう片方の花の環をくわえ、ロマーノの頭に載せた。きょとんとして、見えもしないのに目を上に向け、手を頭にやって花冠が載っていることを確認すると、ロマーノの頬が淡く染まった。
「久しぶりだな、誰かが俺だけに何かしてくれるの」
 泣きそうな眉で呟くと、牛の腹に寄り掛かった。脇腹を撫でるロマーノの横で、牛の尾が忙しなく振られる。虫でも追っているのかと見ても、小虫の一匹も飛んでいない。
「どうしたんだ?」
 牛は尾で背を叩くと、ロマーノとしばらく目を合わせてから首を後ろへひねった。
「……乗れって?」

 ロマーノは驚いた。背に跨った途端に牛が走り出したのだ。それも、海に向かって。しぶきを上げて海の中へ踊り込む牛に向かってロマーノは声を張り上げた。
「待てよ! 戻れって!」
 牛はロマーノの制止などお構いなしにずんずん走る。一歩踏み出すたび、小さなロマーノには跨ることすら容易でない太い胴が、振り落とされないのが不思議なほど大きく波打つ。海の上を草地のように疾駆する牛の角に必死でしがみついた。押し寄せる風から逃れようと顔を伏せると、脇の下からちらりと祖父や弟と住んでいた大地が見えた気がした。

 どれほどの時間が経っただろうか。手の感覚はすでになく、呼吸できているのかすら怪しい。ロマーノはとうとう耐え切れなくなって角から手を離した。
 恐れていた衝撃は訪れず、束の間の空中遊泳の後しっかと抱きとめられる。
「はぁー、全力で走ると疲れるなあ」
 のんびりした声に顔を上げると、見たことのない青年に笑いかけられた。
「……誰だ、お前」
「俺はスペイン。自分は?」
「ロマーノ……っそうじゃなくて!」
 あれだけの水しぶきの中を走ってきたのに服は裾すら濡れていない。牛の姿はどこにもないのに、掌はごつごつした角を、腿は筋肉がうねる感触を覚えている。明らかに異常な事態の中で飄々とした笑みを浮かべている青年に、ロマーノは食ってかかった。
「俺の目ぇ見て?」
 言われるままにロマーノは青年の瞳を見た。瞳孔の形こそ違えど、きらきら光る翠は初めて見る色ではなかった。
「お前、牛なのか……?」
「スペインやでー。さっきは花ありがとな。もう一回半分こ頼んでええ?」
 再度名乗った青年が、牛にやったはずの花環を首から外して差し出した。髪を梳くように撫でられて、ロマーノは冠をどこかで落としてしまっていることに気付いた。

 延々と連ねた愚痴を聞かれていたと思うといたたまれないが、今は花環を編みなおしている手元を凝視されていることの方が恥ずかしかった。今にも溢れ出しそうな感情を表に出すまいとしてロマーノはいつも以上のしかめ面だ。
「なんでこんなとこに連れてきたんだよ」
 冠を二つ完成させると、その片方をスペインに渡しながら尋ねる。
「一目惚れってやつかなあ」
「よく分かんねーぞ」
「ロマーノとエッチしたいねん」
「えっち?」
 受け取った冠をロマーノに載せながら笑うスペインの言は、質問の答えになっていないどころではなく、意味すら解らなかった。ロマーノはオウム返しに言った。
「赤ちゃん作るのにすることかな」
「……それは無理だぞ。だって俺は男だ」
「ありゃ、知ってたん」
 表情を曇らせたロマーノを、スペインは意外そうに見た。
「バカにすんな! 男は母親にはなれないってじいちゃんが言ってたぞ!」
「それだけ?」
「文句あるのかよ」
 それを祖父に言われた時の、抱き締めてくれる腕や人肌が恋しかった甘えた自分を見透かされそうで、ロマーノはわざと怒り顔を作った。
「文句なんか全っ然あらへんよ。ロマーノは賢いなあ」
「当たり前だろ!」
 胸を張ったロマーノに同調するように腹が「クキュゥ」と奇妙な音を鳴らした。昼食の途中で飛び出してきたことを思い出す。ぱっと空を見上げると、太陽は傾きかけているものの、今すぐここを発てば夕飯には間に合いそうだった。
「トマト食うか?」
 受け取ったトマトを頬張りながら「帰りたい」と口にすると、スペインはにこりと笑った。



 なだらかな丘の中腹に広がる花畑で青年は花を摘んでいた。一通り摘み終えると花を並べ替えて色合いを整え、地面を横切っている蔓を一枝折り取って器用に束ねた。作ったばかりの花束を片手に丘を登り始める。
 海が一望できる場所に、その墓はあった。
「ごめんじいちゃん」
 石に刻まれた名前をひと撫でして、ちょっと迷ってから花を手向けると、青年は隣に腰を下ろした。背負ってきた布製の袋を開けると、両手に余る大きさの平たい箱を取り出した。板の継ぎ目には封を削って抉じ開けた跡があった。そろりと蓋をずらす。収まっていたのは、触れただけで崩れそうなほど乾いた茶色い環。
「約束は守れない。俺、兄ちゃん探してくる」