「席を外してください」
話がひと段落ついた後、オーストリアさんの声に立ち上がったら、テーブルを挟んで斜め向こうに座っていたドイツも椅子を引いていた。
「残るのは貴方ですよ、イタリア」
戸惑った目に戸惑いを返す間もなく告げられた答えに、ドイツはホッとした表情を見せて足早に部屋を後にした。なんだ、最初から決まってたんだ。かすかな疎外感と嫉妬心がちくりと胸を刺す。無二の友人は上司の命令で仕方なくと言うけれど、憧憬の人に対等以上の立場で屋根を共にできるという環境は羨ましかった。
「いつまでそうしているつもりですか? お掛けなさい」
「あ、うん!」
慌てて腰を下ろしたものだから、テーブルに対する椅子の角度を上手く正せなかった。オーストリアさんのコーヒーカップを置く所作の、これ以上ないほどの優雅さの前には、そんな些細な歪みすら許容してはならない気がする。
「最近、何かありましたか?」
「ヴェ? 別に何もないよー」
ポットに寄せ植えした花が想像以上に調和のとれた色合いで咲いたとか、路地裏を散策していて見つけた店の細工が非常によかったとかなら、日が暮れてからも話していられるくらいあるけど、訊ねられているだろう身辺に起こった変事というものは何もない。最近犯したミスと仕事の進退状況に思いを巡らせかけたが、それをドイツ抜きで二人で話すというのもおかしなことだ。
「そうですか。ドイツにも聞いたのですが、特におかしな点は見当たらないと」
「あ、困ったことがあるなら俺も頑張るよ!」
きな臭い空気全てを払拭することはできなくても、個人としての彼が深呼吸できるだけの安穏を確保するだけなら叶えたい。立ち上がって身を乗り出すと、眉を曇らせたオーストリアさんは「勘違いなら構わないのですが」と前置きをして言った。
「私を避けていませんか?」
「俺が?」
「貴方以外に誰がいるんです」
「そんなことないよ。大事なお皿も割ってないし」
おどけて見せると、小さかった頃を思い出したのかふっと顔が和らぐ。
「相変わらず嘘を吐くのが下手ですね」
とん、と心臓が一度だけ弾んだ。嘘を見抜かれたことを焦らなくてはいけないはずなのに、知られてしまうことが怖かったのが馬鹿らしくなる速さで、胸の中を安堵感が占めていく。
「……好きなんだ」
気付けばその言葉を口にしていた。考えるばかりで最初の一筆が描き出せなかったのに、一度体が動き出すと驚くほどに滑らかだ。
「俺は、オーストリアさんが好きなんだ」
もっといつもみたいに笑ってみせられればいいのに、想いの全てを出し切ることに熱中して、直立した姿勢も、柄に合わない真面目な顔も崩せない。好きなんて言葉は言い慣れているはずなのに。
「私も好きですよ、イタリア。でも、それは貴方の気持ちには応えられるものとは違う形です」
目を逸らさずに、嫌な顔もせずに、迷うことすらせずに、オーストリアさんは言った。それを聞いてやっと、気が抜けたように笑えた。告白した見返りに得られるものなど元より期待していなかったから、自分でも意外なほどに穏やかな気分だった。
「そうだって分かってるから言わなかったんだよ」
「いつからですか?」
「俺、ちゃんと覚えるの苦手なんだ」
「私のことも、好きになる色々なものの一つですか?」
「違うよ! どういう好きなのかは俺もよく分からないけど」
意地の悪い言葉を慌てて否定する。キスしたりハグしたりしたいという好きとは違った。抱えている「好き」の中では、好きなものを絵を描くことに一番近かった。身体を求めるような直接的なものを想像したことはないわけではなかったけれど、それは強引に実行に移したいほど魅力的なことではなかった。
この「好き」が一体どいういうものなのか、今考えていること全てを話したら、代わりに答えを出してもらえるのだろうか。
「試してみましょう」
「え?」
「確かめたいのなら一緒に寝てみましょうと言っているのです」
ドイツに今日は戻らないと告げてきたと言うオーストリアさんの表情からは、この提案がさっき考えられたものなのかも、ドイツにこのことを言ったのかも分からなかったけれど、もし全てが詳らかにされていたとしても、不快には思わない自信があった。
試すだけなのだから、一緒のベッドに横になるだけでいい。もしその気になったのなら、手を出しても構わない。それを受けるかどうかはその時になってみないと分からないけれど、行為に及ぼうとしたからといって、今後の関係が悪く変化することはない。
「さあ、始めましょうか」
都合の良すぎる提案を復唱して、目の前で衣服を脱ぎだしたオーストリアさんは、緊張を感じ取ったのか、可笑しげに笑った。
「いつも脱いで寝ているのでしょう? それとも、着たままの方がいいですか?」
自分の家なのに、自分の家ではないような感覚。ドイツがオーストリアさんと一緒に住み始めてから夢想したことが、一夜だけとはいえ現実になるとこうも落ち着かないとは。
「傷……」
共にベッドに入って目に付いた、体に残る細く古い傷をそっと指でなぞる。
「珍しいですか? 私と干戈を交えたこともあるでしょうに」
「思い出そうとするとピアノを弾いてるとこばかり思い出すんだもん。想像できないよ」
彼の出自や歩んできた道は知っているし、あの頃一緒に住むことになったのも彼との戦いに負けたからだったのだが、感覚がまるで遠い。
「世の中は想像できないことばかりですよ、お馬鹿さん」
くすりと笑う口元や布団から覗く白い肩を見ても、お気に入りのステンドグラスを見ているような幸福感が沸き起こるだけで、ちっとも疚しい気持ちは生まれなかった。彼は何があろうと眠って朝になれば元通りだと言う。明日になれば、時間はどこまで巻き戻ってくれるのだろうか。