「溶けそうやな」
 窓の外を見ていたプロイセンはスペインの声に振り向いた。
 スペインはいつからそうしていたのか、机上に広げた日直日誌の脇に頬杖をついて、斜日の光の中に佇むプロイセンを眺めている。頬に当てた手がシャーペンを握っているということは、まだ己の職務を忘れてはいないらしい。
「いきなりなんだよ」
「プロイセン色薄いやん? こんだけ光が強いと溶けてしまいそうやなって思って」
 放課後の教室に溢れる鮮やかな金色の光。全てを染め上げそうな光の奔流の中でも確かな存在を主張する色の髪と肌の持ち主にはそう思えるのだろうか。プロイセンは自分の目でも見えるように前髪をつまみ上げて、確かに光に透けるそれから目を離して、スペインに視線を送る。
 逆光に眩しそうに目を細めながらも、窓際の机に腰掛けたプロイセンから目を逸らさずにいたスペインは、訝しげなプロイセンの視線を受け止めるとひらひらと手を振った。
「そんな深く考えんといて。ただ思っただけや」
 日誌の項目を埋める作業を再開したスペインに、プロイセンもまた、窓の外に視線を戻した。

 期末テスト前日というだけあって校庭に人の姿はなく、あまりの静かさに、三階にあるこの部屋には届くはずのない、枯葉が地面を擦る音が聞こえる気がした。淡い色のカーテンを揺らして吹き込んだ風は、日差しとは対照に冷えている。誰もいない校庭で時折巻き上がる砂埃と、彩りを失った木立は、校内に広がる味気なく乾いた空気を象徴するかのようだ。
 無意識に口元にやった手に、空気と同じように乾いた唇が触れた。

 がたがたと音を立ててスペインが立ち上がった。
「日誌教務室に出してくるから先に行っといて」
「今まで待たされたんだからここで待っても今更変わらないだろ」
「いや、俺の鞄持って行きかけといて欲しいねんけど」
 二人の視線の交点にはスペインの鞄。
 プロイセンは知っている。スペインが机に教科書を入れっぱなしにしていることを。それなのに彼の鞄は、勉学とは無関係な物品の数々が詰められているせいで重たいことを。
「俺にそれをするメリットはあるのか? 待ってやっただけでサービスが過ぎる気がしてるんだが」
「えっ、プロイセンは好きで俺のこと待ってくれてたんじゃないん!?」
「バカか! 俺はお前に化学のノート返して貰えない限りは帰れないんだよ! しかも好意で待ってたとしても荷物運びはないだろ!!」
「なんや、俺と帰りたいから待ってくれてるんやと思ってた」
 悪気なく目を丸くしたスペインに、プロイセンは心底から衝撃を受けた。いくら普段よく話しているとはいえ、つるんでいる時間が楽しいものだとはいえ、女子じゃあるまいし四六時中一緒にいたいなど思うものか。しかも、双方の帰り道は校門を出た時点で左右に分かれるのだ。
「とにかく日誌出して来いよ」
 目を合わせると呑まれそうな気がして、プロイセンは視線を外して言ったのだが、
「プロイセン唇痛ないん? めっちゃ乾燥しとるやん」
 唐突過ぎる話題の転換についスペインを見てしまった。純粋な好意が湛えられた瞳が映る。スペインは自らのポケットの中をごそごそと探ると、取り出した物をプロイセンへ放り投げた。
「ナイスキャッチ! それでも塗って待っといて!」
 反射的に掴んだそれをリップクリームだと認めた時には、スペインはもう教室の戸に手を掛けていた。呆気に取られているプロイセンに、廊下に出たスペインは顔だけ教室に覗かせてニッと笑った。

 駆け足の足音が遠退いて、やがて聞こえなくなった。
 今やらなければならないことの中で最優先するべき事項は、化学のノートを返してもらうことだ。しかしそれはスペインがいなくては叶わない。鞄から教科書を出して勉強するのも億劫だ。教科書を開くタイミングを見計らったようにスペインが戻ってくるだろうという、そんな確信めいた予感もしている。
 何に対する溜息か分からない息を吐き出して、出しっぱなしにされたスペインの椅子に座った。手の中に納まっていたリップクリームのキャップを開けて、中身を繰り出して唇に滑らせて、また閉める。
 全然暇が潰れないことにがっかりして、何を期待していたのかと自分に呆れながら机に突っ伏す。現行の視覚が利かなくなったせいで記憶の中の映像が鮮明に流れる。教室を出るときのスペインのからかいを含んだ笑いと、あと、何か言って――『女の子のやなくて残念やろうけど』――そう、それだ。
「ってオォイ!」
 叫び声を上げて体を起こす。
 女子更衣室を覗いていたことは認めるが、放課後に女子のリコーダーを舐めるような、そこまで偏執的な趣味はない。むしろ覗きは健全な男子高校生として当然の嗜みだとも思う。

「プロイセン何一人で暴れてるん?」
 折りしも、スペインが帰還した。
「お前なぁ! 俺のことなんだと思ってるんだよ!」
「いきなりどうしたん。まあええわ、待っててくれたお礼にコーヒー進呈!」
 食って掛かったプロイセンは、生温い缶コーヒーに気の抜ける笑顔を添えた能天気セットを押し付けられて、完全に勢いを殺がれた。
「……どうしたんだこれ」
「頂戴って言ったらくれはってん。いやー、教頭センセ好きやわー」
 買ってから時間の経っていそうな温度からすると、仕事がひと段落ついたら飲もうと思って置いていたのを、スペインが目敏く見つけたのだろう。日誌を置く棚のある入り口から教頭の席までは離れているというのに。教頭に同情すると共に心の中で礼を言って、缶の蓋を開けた。
 飲み良い温度のほろ苦い液体が喉を潤していく。
 落ち着いたところで、先の質問を繰り返そうと試みた。
「なあ、」
「一口頂戴な」
 声に被せるようにスペインは缶をひょいと奪って、口をつけた。飲むために首を傾けながらも視線を寄越して、スペインは発言を促すように瞬いた。
 しかし、頭を過ぎった言葉に、プロイセンは硬直した。

 間接キス。

 そして、否定する。回し飲みは日常的にあることだ。意識する方がどうかしている。
「ありがと。何言おうとしとったん?」
「ああ、それな、」
 返された缶を受け取って、飲み口を見て、スペインがそこに口をつけたということを頭の中で唱えて、後悔した。せっかく否定したのに何故にわざわざ自分は。
 振り切るように、逆の手に握ったままになっていたリップクリームの存在を思い起こした。
「これ、ありがとな」
「ええよ。切れたら痛いから気ぃつけや」
 覚えがあるのか、スペインは指先で唇をなぞった。その動作を、指の動きに添って唇が僅かに膨らみの形を変える様を凝視してしまったことに気が付いて、プロイセンは顔が熱くなるのを感じた。
「せや、ノート返さな!」
 プロイセンにとっては幸いなことに、スペインはプロイセンを見ることなく机の中を漁り出した。少しの抵抗を受けながら引き出した教科書とノートとプリントの束の中から、目当てのノートを見つけて取り出すと、パラパラとページをめくった。スペインの手とは違う、やや神経質な表情で綴られた文字。
「お前まさか、一度も持って帰ってないとか言わないよな?」
「冴えてるなあ、そのまさかや」
「何のための俺のノート借りたんだよ!?」
 答えの代わりにへらっとした笑いを返されて、プロイセンは思わず額に手を当てた。化学のテストは二日後だ。ノートを貸したのは最後の授業の後だから、三日前。日頃から勉強していれば何のことはない出題内容だろうが、スペインに限ってそんな殊勝なことはないだろう。

 校門まで自転車を押してきて、さあ帰ろうという段階になってスペインは言った。
「プロイセンが俺に化学教えたったらええんちゃう? ほら、人に教えるのって勉強になるって言うし!」
 一石二鳥の名案や! と、目を輝かせる。
「一夜漬けする気かよ。それにしたって自習室は私語厳禁だぞ。どうするつもりだよ、喫茶店でノート広げるわけにもいかないだろ」
「俺んち行ったらええやん。学校から近いし自転車二人乗りしたらすぐやで」
「は?」
「決まりな! 明日、テスト終わったら俺の家に直行! 悪いけど明日は明後日のテストの勉強する準備も持ってきてなー」
 片手を大きく一振りすると、スペインは振り返ることなく自転車を漕いで行ってしまった。

 校門前に取り残されたプロイセンは、教室で渡された状態のまま握っている缶に目を落とした。意を決して口づけて、すっかり冷えたコーヒーを飲み干すと、リップクリームの感触の残る唇を手の甲で拭う。心臓の高鳴りと顔の火照りは、混乱した頭が何かを履き違えたせいなのだ。きっと。