元ネタ:Lynx(Axe)のCM
http://www.youtube.com/watch?v=iAeY0Icxxuo

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 収穫した野菜をバルに届けた帰りだった。
 薄暗い路地でそこだけスポットライトが当たったように明るい。光の中心に立ったものは、どう見ても天使だ。
 頭上に輝く円環と大きな羽。短い衣からすらりと伸びた足は、落下の衝撃で割れたらしい地面の上に立っているのに傷どころか汚れ一つない。怪我をするという概念すらないのだろう。破片に構うことなく歩き出す。
 しかしスペインの驚きは、天使が現れたということだけでは終わらなかった。

「ちょ、ちょっと待って」
 壁を背にした――正確には押しつけられた――スペインは狼狽えた。日に焼けたような色の滑らかな肌とヘーゼルの瞳。頬をくすぐる煉瓦色の髪は絹糸のように柔らかく、吐息は花のようにかぐわしい。
「どうかしたか?」
「どうしたもこうしたも……」
 スペインは戸惑いながら腕の中にいる相手を見た。男か女か、そんなものがどうでもよくなるような美しい容姿だったが、声からすると男らしい。もっとも、天使に性別なんてものはなかったような気がするが。
「このままじゃ不満か? それなら」
 触れる感触が柔らかなものに変わる。乳房が押しつけられているのだと知り、スペインは慌てた。まるで女を知らない少年のように慌てふためき、押しのけようと彷徨わせた手で尻を触ってしまい、さらに慌てた。
「どのくらいがいい? 胸も腰も尻も、締まり具合だって、全部お前の好みにしてやるよ」
「そのままでええよ!」
「……そうか」
 天使のくせに、耳元で聞こえた囁きはまさしく悪魔の誘惑だった。スペインが肩を掴んで引きはがすと、天使はすんなりと元の体型に戻った。
 スペインはほんの少し残念に思った。


 事が済んだ後のベッドは、今がまだ昼間だとは思えないような乱れぶりだった。しかも情交の相手が天使――今となっては堕天使――となると、不健全も不健全、今すぐ教会に走らなければならないような状況だ。
「……まあええか」
 よかったし、とスペインは思考を打ち切った。
 そして現実的な問題である「部屋中に散らばった羽根をどう片付けるか」「食べ損ねた食事はどうするか」について頭をひねりながら、眠り込んでいる元天使はそのままにして、シャワーを浴びに行った。


「うまい」
 ロマーノと名乗った堕天使は、出会ったときに見せた色気はどこへ行ったのやら、遊び回って腹を空かせた子供のように、夢中で料理を食べていた。膨らんだ頬と満足げそうな表情が、ロマーノがスペインの料理が気に入っているということを言葉よりも雄弁に物語っている。
 何を食べるのかが分からず、なるべく幅広い食材を使ったおかげで、この時間の食事としては豪華なものとなった。といっても、ディップ用に用意したツナソースとか、冷蔵庫に残っていたハムの切れ端だとかを除いて、ほとんどが自家製の野菜だ。ロマーノは特にトマトが気に入ったらしく、せっせとフォークを突き刺していた。添えてあるチーズにはトマトほどの興味はないらしい。
「切ったらまだあるからな」
「丸のままでもいい」
 どうやらイメージしていたような「お上品」な存在ではないようだ。スペインはちぎったパンを口に入れながら、ロマーノを観察した。光輪がなくなったことと、最初に見たときよりも羽の色が暗くなったことくらいしか変化が分からない。そもそもこれは本当に天使なのだろうか。
「なんでこっちに来たん?」
 喉に支えたらしいロマーノに水を渡してやりつつスペインは聞いた。
 ごくごくと水を飲み、やっと食欲も落ち着いたらしいロマーノは、答えようとしたのか口をわずかに開けて、スペインをじっと見た。
 そして、首を傾げたかと思うと、ロマーノはテーブルの上を渡ってスペインの元に来た。不思議なことに食器は一つも乱れていない。
「あれ……」
 すとんとスペインの膝に跨って、首筋に顔を埋める。すんすんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。そのくすぐったさにスペインは首をすくめた。
「どしたん。し足りへんの?」
「……匂い」
「匂い?」
「あの匂いがしねーぞ」
 ロマーノは何が起きたのか分からないという顔でスペインを見つめた。スペインはロマーノを見て、それから自分の匂いを嗅いでみる。いつもと変わらない、風呂上がりの匂いだ。
 訳が分からないながらも、狼狽しているロマーノを見ていると何とかしてやりたくなる。ここまで付いてきたということは人違いなどではないのだろう。普段自分からする匂いといえば、土と、食品と、車のオイルと……
「……ちょっと来て」
 席を立ったスペインは、ロマーノの手を引いて寝室に駆け戻る。棚に置いてあるスプレー缶を引っ掴んで、ロマーノに見えるように噴霧してみせた。
「これ?」
 聞くまでもなく、ロマーノは魅せられたような表情をした。
 ロマーノはスペインにすり寄りたい衝動を堪えるようにシャツを握りしめると、複雑な表情でスプレー缶を見る。
「お前じゃねーのか」
「俺と言えば俺やけどなぁ」
 落胆した風な表情で黙り込んでしまったロマーノを前にして、スペインも所在なげに視線を彷徨わせた。何とかしてやりたいと思うものの、堕天使を天使に戻す方法など知るはずもない。
「……いい」
「え?」
「別に、お前でいい」
「それってここに残るってこと?」
「当たり前だろ。行くとこねーんだよ」
 ロマーノはふてくされた顔で言うと踵を返した。すたすたと部屋を出て行く。
 付いてこないスペインが気になったのか、廊下から顔だけ覗かせる。
「飯は一日三度。トマトは別計算だからな」