「……まっず」
低く不機嫌な声。
今の今まで夢見心地だった体に、急に現実感が戻ってきた。虚脱感が幅を利かせ始めると同時に、思考を包み込んでいた、たっぷりと蜜を含んだ果実のような甘い匂いが薄まっていく。
スペインは離れようとする影に脚を絡ませた。
「つーかまーえたー」
「ッ!?」
「こんな夜更けに何の用やろ? ……用は済んだんやろけどな」
全くの不意打ちだったのだろう。股間にうずくまっていた影は、逃げるよりも状況を理解したい様子で、スペインを見つめ返していた。大きく見開いた瞳が光って見えるのは、月の光が映っているせいだけではあるまい。
「答えたくないんやったらええよ」
スペインは影を押さえつけたまま、ロザリオを手繰り寄せた。
ねじくれた角に、コウモリのような翼、それに奇妙な形の尻尾。影の正体は絵に描いたような「悪魔」だったが、そう見えているというだけで、実際には違う姿なのかもしれない。先の行動から推測すると淫魔の一種だろう。その性質のせいか体を覆う布は少なく、これが女性体なら目のやり場に困っただろうことが容易に想像できた。
「くっそ……」
悪魔は縛められた手首を悔しげに見た。縛めるといってもロザリオを軽く巻き付けただけだが、効果は十分らしい。忌々しそうに睨み付ける以上のことはせず、大人しく床に座っている。
「なんで動けるんだよ」
「俺が聞きたいわ。こっそりやってくれたらええのんに、起きてしもたやん」
スペインは眠い目を擦った。
「自分男やろ。なんで女の子狙わへんかったん?」
「捕まらなかったんだよ……」
「そんなん今みたいに忍び込んで襲ったらええやん」
しょぼくれていた悪魔は、スペインの発言を聞いてぎょっと目を見開いた。
「そういうのは合意の上でやるもんだろうが!」
「そりゃ、それが望ましいけどやな……」
まさか悪魔に反対されるとは思わなかったスペインは、居心地悪げに明後日の方角を見た。生きたいと願うならば、倫理や道徳など考えるものではない。その考えが間違っているなら自分は今すぐ神罰に当たって死んでいるだろう。
心の中で言い訳したところで、矛盾に突き当たる。
「俺は同意した覚えないで」
「お前は男だろ」
「……せやな」
主導権は自分にあるはずなのに、相手のペースに巻き込まれている状況を打開すべく、スペインは部屋の窓を大きく開けた。スペインの動きに釣られて、悪魔も窓を見、まぶしいものを見るように眼を細める。
「自分無害そうやし、このまま解放したってええねんけど」
「おう、早く放しやがれ。いつまでもこんなむさ苦しいとこ居たくねーよ」
「自分の立場分かっとるか? 俺はこの場でお前を消せるねんで」
「……まさかと思うが、お前、エクソシストか?」
「そのまさかや」
スペインが肯定すると、悪魔は驚いたような、戸惑ったような顔をした。なかなかいい反応だ。
満足するスペインをよそに、悪魔は考え込むような素振りを見せた。
「……坊主のくせに非童貞とはどういうことだよ、この腐れチンポ野郎。一人二人とつがったって程度じゃなかったぞ」
***
「起きろ! スペイン、起きやがれちくしょー!」
ぼすん、と腹の上に何かが飛び乗ってきた。初撃こそ辛かったが、大した重さではない。スペインは腹を庇って体を丸めた。
「あと五分寝かせてや……」
「だめだ! 朝飯食わせろこのやろー!」
「うう……」
容赦ない光を突きつけてくる太陽を恨みつつ目を開けると、小さな子供がいた。
「違います、俺やないんです、神よ、ああ慈悲深き神よ、どうかこの身の潔白を立証させてください、俺の子供じゃありません、絶対に違うんです、これは何かの間違いなんです」
「うるせぇぞちくしょう」
ごつんと強烈な頭突きを頂戴した。
「痛い……」
「昨日の今日で忘れるか、普通。俺だよ。ロマーノ。昨日契約しただろうが」
「……え?」
そう言われてみれば、そんなことがあった気もする。
――俺が親分、お前が子分。
そう宣言する自分の声が蘇る。
「……ちっちゃない?」
月明かりしかなかったとはいえ、あの時の悪魔は今より大きい、ごく普通の成人男性サイズだった。
「こんだけ太陽照ってる時にあのサイズ保ってたら、あっと言う間に魔力切れ起こしちまうだろうが」
「そうなん」
「大丈夫か? 契約上お前が主なんだからしっかりしろよ。共倒れなんて御免だぞ」
「……ちなみに俺が死んだら?」
「俺も死ぬ」
「……」
「何だよ気持ち悪い顔すんな!」
「愛の告白みたいやんなぁ」
「寝ぼけたこと言ってんじゃねーよ!」
どうせ使い魔に落ちるなら女の子がよかった、何で野郎なんかと、とロマーノ(確かさっきそう言った)はぶつぶつ言っている。
「なぁ、親分って呼んでくれへんの?」
「スペイン」
「『親分』やで」
「スペイン」
「……」
「……」
大きな腹の音が邪魔をした。
「腹減ったぞ」