ヴェネチアーノにハグと頬ずりを浴びせかけているスペインの姿を視界から追い払って、ロマーノは手酌でグラスを満たした。酒の勢いもあるとはいえ、先々週の会議でも会ったという男二人が交わすスキンシップとしては、日頃の親好を差し引いても異常だった。弟の姿はスペインの目にどう映っているのか。掴み取ったナッツを一気に口に入れて噛みつぶす。飲み込む前から胸焼けがした。
と、ソファーの座面が揺れた。
スペインとヴェネチアーノが目の前にいる状況で、隣に座れるのは一人しかいない。それでもロマーノは隣を目で見なければ、オーストリアが座ったということを実感できなかった。スペインと並んでも、ヴェネチアーノと並んでも意外性がない。それはロマーノにもオーストリアにも言えることで、それなのに自身とオーストリアが並ぶと違和感が生まれる。
「苦労しますね」
独り言のようなオーストリアの呟きが、スペインの行動を指して言っているのは明白だった。
「別に。あいつのアレは今に始まったことじゃねーだろ」
まっすぐ前に向けられたままのオーストリアの視線を追うように、ロマーノは排除していた二人の姿をもう一度視野に収める。過剰なスキンシップと笑顔のバーゲンセール。見慣れた光景だった。
「スペインだって悪気があるわけでない」
「わーってるよ」
「――そう思ってるのでしょう?」
おざなりな相槌にかぶせるように言われて、ロマーノは思わずオーストリアの表情を窺った。一体どういうつもりなのか。酒が入っているとも思えない白い頬には何の感情も浮かんでいない。親しくはないが嫌いでもないオーストリアは、ロマーノにとって曖昧な位置づけにある、やりづらい相手だった。
「……そう睨まないでください。ただの雑談です。他意があるわけではありません」
ロマーノの目が自分に向いていることを確認するように、オーストリアもロマーノを見た。神経質な感じのする細縁のアンダーリム。その奥にある紫の瞳は、見慣れない寒い地のものだ。
「イタリアとあなたは違う。それは当たり前のことで、気に病むことでも改善すべきことでもありません」
「今さら言われるまでもねーよ。スペインだって俺とヴェネチアーノを比べてどうこうってんじゃなくて、単にあのバカのことが好きだからやってんだろ」
言っていて気持ち悪くなったロマーノは顔を歪めた。嫉妬や羨望ではなく、酒場でゲイに絡まれたような嫌悪感だ。スペインと関係を持ってから「そういう空気」が付いてしまったらしく、全くそのつもりはないのに声を掛けられることがあった。ロマーノは今でも自分をヘテロセクシュアルだと思っている。
「スペインが弟に……ああ、無理だ、気持ち悪い。俺が関わることじゃないし、考えたくもない」
「スペインとイタリアの問題ならそうでしょう。人の感情――あの人の場合は特に、止めようとして止められるものではありません。でもロマーノ、あなたとスペインの問題ならどうですか?」
「……どういう意味だよ。お前の話、分かりにくいぞ」
オーストリアは「あくまで仮定の話です」と前置きした。
「スペインは悪気があり、あなたを傷つけたくてやっている」
目の前の光景が色あせて、音が遠ざかる。しかしそれは一瞬のことだった。
「……は」
口から出た笑いは掠れていて、ロマーノは誤魔化すようにワインを呷った。渇きを癒すはずのアルコールが苦く感じた。
「日当たりが悪いと考え方まで暗くなんのか?」
干したグラスを手にしたまま、ロマーノは憎まれ口を絞り出した。
「気分を害したのなら謝ります。私が昔、手を焼いたことがありまして」
オーストリアが手を焼いたのは、スペインの奔放な行動か、それともオーストリア自身の感情か。どちらとも取れるその意味を、ロマーノは確かめる気にはなれなかった。あの頃のスペインの放埒さは今の比ではなかったが、立場的にも性格的にもオーストリアが堪え忍んでいたとは考えづらい。それにロマーノは当時の二人の個人的な関係が、どういうものだったかを把握していない。知りたくもない。これ以上この話題を続けても、酒の苦さに拍車を掛けるのがオチだと思えた。
「ご助言どうも」
公言しているわけでも、隠しているわけでもない。ましてやかつてのオーストリアとスペインのように公式のものでもない。その上、和気藹々と話せる相手ではないとくれば、返せる答えは限られてくる。
「無駄になることを祈ります」
こちら側に置かれたチーズに興味を示したヴェネチアーノのために、チーズを皿に取ってやりながら、オーストリアはやはり独り言のように言葉を落とした。
「おいおいおい、飲み直そうとすんじゃねー」
オーストリアとヴェネチアーノを見送って、戻ってきたリビングで再びグラスを取ったスペインの手を、ロマーノは押さえた。スペインはソファーに座ったまま、グラスを取り上げたロマーノを見上げると、わざとらしく唇を尖らせた。
「いけずー」
ぼすんと横倒しにソファーに倒れ込み、クッションを胸に引き寄せて拗ねていることをアピールする。わざとらしすぎる行動を、自分よりも体格の良い、しかも年長の男にやられると、感情はちっとも波立たず、ただひたすらに面倒くさくなる。
「オラ、片付けんぞ」
「ううん……」
そこまで酔っているわけでもないのだろうが、寝転んだことで一気に眠気が増したらしい。億劫そうな返事をするスペインの体は、見るからに力が抜けてリラックス状態にある。
「起きろよ。待ったって俺は片付けねーぞ」
テーブルに載ったグラスと空ボトルと皿を見て、もう一度スペインを揺らす。
酒気と眠気に浸った目がゆるく瞬いたが、それだけだった。
ロマーノは空いているスペースに腰を下ろして額を揉んだ。居心地の悪い、酔いのよくない部分だけが残ったような頭で、オーストリアとの会話を反芻する。スペインが持つ、ヴェネチアーノへの興味は絶対になくならない。ならばスペインが気を遣って、目の届かないところでだけヴェネチアーノとよろしくやるようになったらどうするか。それは冗談にもなれない不愉快な想像だった。
「オーストリアと何の話しとったん?」
狭い空間で寝返りを打とうとするスペインの足が当たる。人の気も知らないで、とロマーノは体を伸ばしてスペインの鼻をつまんだ。スペインは「ぬぁー」と声を上げたが手を外そうとはしない。
「お前の考えてることが分からなくて疲れるって話だよ」
ロマーノはつまんだ鼻を引っぱり引っぱり、弾くようにして手を離した。
スペインは鼻を押さえながら首を傾けロマーノを見る。
「何も考えてへんよぉ」
本当に何も考えて居なさそうなスペインの顔を見て、ロマーノはもう何度目になるかも分からない「考えすぎ」という結論を立てた。小さな声で「だよなぁ」と相槌を打つ。スペインは何が可笑しいのか、やたら幸せそうな笑い声を立てた。
「……あ、ロマーノが今考えてること当てたろか? 親分のことやろ?」
「頼んでねぇよ」
「二人して俺のこと考えてるってくすぐったいなぁ」
「……お前もたまには俺のこと考えろよ」
急に勢いよく起き上がったスペインは、ロマーノに頭突きをしそうになったのを慌てて避け、そのせいで落ちかけた尻をソファーに載せ直した。気を取り直して、大げさに両腕を広げてロマーノに抱きつく。
「もっと言うて!」
「……」
この酔っぱらいめが、とロマーノは口をへの字に曲げた。出かけた溜め息を深呼吸で殺す。
「ロマーノはもっと親分に甘えてええねんで!」
「ここの片付けと明日の飯はお前な」
「そうとちゃうくてぇ」
「なんだよ」
「『俺だけ好きでいろ』とか」
ロマーノは今度こそ溜め息をついた。
「……できもしないこと言うんじゃねぇ」
スペインの胸を押して立ち上がろうとしたロマーノの手を、スペインは引いた。ロマーノが振り払わないのをいいことに、微妙に力加減を変えながら、手のひらや、手の甲を指でさする。行動の意味は分かるものの、スペインの意図が計れずにロマーノは眉を寄せた。
「おい、何だよ。はっきり言え」
スペインはゆるく笑いながら「おいで」と自分の膝を叩いた。いくらかぼんやりしているものの、譲る気配がまったくないスペインの眼を見て、ロマーノは渋々スペインの膝に跨った。背筋を伸ばしているのが億劫でスペインの首に腕を回す。スペインも当然のようにそれを受け止める。
「……疑っとる?」
「だったらこんなことしねーよ」
スペインが喉の奥で呻いた。笑ったのかもしれない。
「大人になったなぁ」
「いつまでもガキのつもりでいんなよ」
「大人って、つまらんやろ」
少し寂しそうな目で、スペインは笑った。こつん、とロマーノの額に自分の額をぶつける。
「全部くれてええのに」