「俺が怪物になったらどうする?」
 カチャカチャとテレビのチャンネルを変え、見たい番組が一つもないことを確認してから、スペインはスイッチを切った。話題の元は電源を切る直前に映っていた映画だ。
「今だって化け物みたいなもんだろうが」
「それ言うたら仕舞いやわー」
 個体への物理的なダメージをいくら受けようとも死なない。それは「バケモノ」の定義を作った者たちからすれば十分すぎるほど化け物だ。それを言うと、スペインは朗らかに笑った。
 話はこれで終わったと思っていたロマーノは、スペインから「どうするん?」とでも言いたげにじっと見られて、意外に思いながらもちょっと考えて答えを口にした。
「別れる」
 和やかな週末の夜に、スペインは世界の終末だというような顔をした。
「この薄情者ぉ! もっと『どんな姿になっても愛してる』とかそんなんあらへんの!?」
「俺がそんなこと言うわけねーだろうが」
「そうやけど、そうやけどな?」
「じゃあ、スペインは俺がお前の存在を我慢してお付き合いをしてても平気なのか? 俺がお前の立場なら耐えられねーよ。義理なら腹立つし本気なら重すぎる」
 吐き捨ててから、思いつきのたわ言相手に何を真剣に答えているのだろうと恥ずかしくなった。空気に流されてスペインまでが黙り込んでいる。
「……我慢されんのは嫌やな」
 やがてぽつりと呟いて、沈黙を埋めるようにもう一度テレビを点けた。


 見ているだけで腹の底から嫌悪感が湧き上がるような生き物が体に絡みつく。想像し得るものの中から一番近いものを挙げるとしたら、ヘドロで出来たタコ。とびきりの汚臭をまき散らす粘液が衣服を染み透ってくる。
「新しいイタズラでも思いついたのか?」
 観光案内を一通り終えた後に軽食を取っていたところで突然連れてこられたビルの一室。拉致と言うには男たちの扱いは丁寧すぎ、それが逆に不安を煽った。不安を悟られまいと虚勢を張るロマーノを、ビルの中で待ち構えていた白衣の男は無表情に見つめた。
「なんとか言えよ!」
「……もしもの時はあなたに、と」
 きちんと畳まれた服が渡される。その上に載せられた、見覚えのあるクロス。ロマーノは纏わりついてくる醜悪な生物を、もう一度見下ろした。


「俺に手間掛けさせんなよ、ちくしょーめ」
 網に入れて吊るした生き物にホースで放水する。洗ったら死んでしまうのではないかという不安が再び頭をもたげたが、このままでは室内に置けない。もがき蠢くそれを見まいとして水流を強める。網を覆い隠す白っぽい飛沫と濡れて色濃くなっていく壁と地面を見つめながら、何を食べるのか、水槽の広さはどのくらい必要なのかと、磯遊びで捕まえた魚を飼う子供のようなことをロマーノは考えた。
「……あれ?」
 そろそろいいだろうと水流を弱め顔を上げると、網の中にはタコが入っていた。ごく普通に市場で売られているようなタコ。網の下にはにわかには信じがたい量の粘塊。
「スペイン? おいスペいひゃああ!!」
 いきなり後ろから腕が回ってきて、ロマーノは奇声を上げた。
「思いつきの子供だましやのに」
「な、え、あれ? スペ、え、スペイン? えぁ?」
「別れるどころか嫌な顔すらせぇへんやん。かわええなあ」
 スペインは目を回しそうなくらい左右に振れているロマーノの目元を指で拭った。それでようやく、ロマーノは滲んだ視界の中にスペインを捉えた。
「……てんめぇ!」
 襟首を掴んでスペインの頭を前に持ってきて思い切りよく頭突き。めまいを起こしたスペインに水を流し続けていたホースの先を潰しながら向け、さらに蛇口を捻る。外れたバルブを空に放り、最大水量の放水を浴びせた。
「待っ、ごろガぼォ゛……ッ」
 よろめくスペインのがら空きの腹を渾身の力で蹴り飛ばした。
「うごっ」
 腹を押さえて二つ折りになったスペインの後頭部に、新体操の棍棒のごときタイミングで落ちてきた蛇口がヒットする。スペインは苦悶の表情で、自由への喜びに踊り狂っているホースが作り出した水溜りの中に崩れ落ちた。

 拾い上げた止水栓でホースの踊りを止めさせると、ロマーノは倒れ伏しているスペインを踏み越えて、網の中で窮屈そうにしているタコに歩み寄った。
「はぁ、いつかはと思ってたけどこんなに早くハゲちまうなんて」
 網を解き服が濡れるのも構わずタコを抱き寄せる。にゅるにゅると巻き付いてくる触手の中から先端に吸盤のない腕を選び取ると、憂いと慈愛を含んだ眼差しを注ぎながら撫でた。
「どうせ汁まみれになるんだからベッドが濡れるなんて気にするなよ。せっかく八本もあるんだから楽しもうぜ」
「い…一本やと…足りへんかったん? ……親分、ショックや」
「海に還れこのタコ野郎!」
 ロマーノは襟元に手を入れ、引き出した十字架を毟り取りスペインに投げつけた。