「見て見てロマーノ、きれいやろ?」
スペインは侍女から受け取った布を広げて見せた。
眼前に広がる青からロマーノが連想したのは、スペインの話に聞く大洋ではなく、陸地に囲われた湖水だった。控えめで品のある光沢は光を素通りさせる水の澄明さを、布を掴む手に作られた影は岸辺を遠く離れた深みを思わせる。
目新しさを懐かしさと同時に感じる布は確かにきれいであったから、ロマーノは頷いた。
同意を得られて上機嫌を加速させたスペインは、片膝をついて布をロマーノの体に宛がい、動きを追って俯いたロマーノに顔を上げるよう指示した。よく似合っていると言うスペインに用途を尋ねたロマーノの声は、スペインが侍女を呼びつける声と被ってしまった。布を片付けさせたスペインは話題を変え、はぐらかされたと感ずる暇もないまま、うやむやになった。
ロマーノの疑問は当人が忘れる前に解消された。
呼ばれた部屋で、仕立て屋が示した図案は女物のドレス。何をふざけたことをと思ったし口にもしたし手も出したが、スペインはその程度で足踏みや後退をするような男ではなかった。
「オーストリアのとこでイタちゃんがいつも着てるエプロンと違う、きれいな色のを着てるん見てな。似せたデザインで二着作って、兄弟お揃いで着せたらめっちゃええやろなーって思ってん」
スペインがひけらかした妙案は、ロマーノの頭に昇った血を沸騰させた。
女装することも嫌だったが、更に嫌だったのは、弟と押し並べて褒め立てられることだった。ロマーノには年長者としてのプライドがあったから大変な屈辱だ。連作の美術品でもあるまいし、わざわざ組みにする必要はないのだ。弟と比べて劣っていると言われた方がまだましだとすら感じた。
思いつく限りの文句をまくし立てるロマーノに、スペインは代案を呈した。
「ほな、ロマ一人で着る?」
逃れられたのか、それとも深みに嵌ったのか、ロマーノは一人でドレスを着ることになった。二着仕立てる予定だったところを一着に減らしたものの、スペインは浮いた分の手間を集約するよう命じたから、節制という面ではこれといった効果はなかった。
スペインの家の一室。当然ながら、ヴェネチアーノもオーストリアいない。
使用人達を下がらせ、ドアが閉まる音の余韻が消えるのを待って振り返ったスペインは、部屋の真ん中にぽつりと立ったロマーノを、自らの目に過ぎたものだとでも言うようにもったいを付けて見た。ほぅと嘆息を漏らす。
「脱ごか」
耳を疑ったロマーノに、スペインは今度は省略せずに言った。
「着てる服を脱ごか、ロマーノ」
もちろんロマーノはこの馬鹿げた衣装を一刻も早く脱ぎたいと思っていたが、その望みを叶えるかに思えるスペインの指図は、何かが決定的に違っていた。元々着ていた衣服は使用人が持って出ている。裸になることは恥ずかしくないが、窓から差し込む光よりもきらきらと瞳を輝かせたスペインを前にして自分一人服を脱ぐということには、抵抗を感じざるを得ない。しかし、着たままでいるという選択もまた、スペインの思うつぼとなることは明白だった。
知らず知らず後ずさっていたロマーノを、さっき知り合ったばかりの靴はあっさりと裏切った。ゴツリとかかとが擦れる音を聞くが早いか、尻と床がぶつかる。生地を何枚も重ねたペチコートのおかげで痛みはさほどひどくはなかったが、こらえ性のないロマーノの目には涙が浮かんだ。
「大丈夫かロマーノ?!」
ロマーノは転んだ原因である靴を、事態の根源たるスペイン目がけて投げつけた。
音を立てないようにドアを閉めたロマーノは舌を出した。スペインはまさか逃亡中のロマーノが追っ手である自分の部屋にいるとは思わないだろう。今すぐここでドレスを脱げば、たとえ自分の部屋に服を取りに行く途中でスペインに見つかっても、脱ぐところを鑑賞されることはない。
立っていただけでは感じなかったが、密に織られた布で、流れ落ちるように美しいドレープが寄せられたドレスは、とても重たい上に走りにくかった。スカートだけでなく、柔らかく膨らんだ袖も空気にまとわりつかれ、ボディラインを美しく見せるための下着や首元を飾るネックレスは呼吸を妨げる。これで履き慣れない靴を履いていたのなら、とても逃げられたものではなかった。
与えられたものは確かに美しく良い品ばかりだったが、相応しい女性が身に付けてこそ価値がある。それを男であるロマーノに、ロマーノが抵抗しなければヴェネチアーノにも着せて愛でようというのだから、スペインは浪費家どころかとんでもない変態だ。
湖からの脱出に没頭するロマーノは、ドアの隙間から吹くわずかな風には気が付かなかった。