「うわあああ!!」
 うららかな午後、窓の外から悲鳴が聞こえた。
「ロマーノ!?」
 窓から飛び出してから、気付く。ここは二階だと。
 ドムッ、と鈍い着地音。
「いっ……」
 衝撃が、足裏からふくらはぎ、腿から背骨を通って脳天まで一気に駆け上ってくる。
 痛みに思考を持って行かれながらも、野戦と大海原で鍛えたスペインの目は、仔ヤギにズボンを引かれているロマーノのお尻を捉えた。正確には、お尻の割れ目の始まりを。
 どうしてそうなっているのか皆目見当がつかないが、とりあえずは眼福である。

「やだ、やだ! 放せぇ!」
 あと五歩というところに迫っても、ロマーノは気付く様子がない。腕にはいちじくが山盛り載った浅い籠が抱えられている。だからズボンを引っぱり返すことも、振り切って駆け出すこともしなかったのだろう。仔ヤギとの戯れを見ていたい気持ちはあったが、ちっとも気付いてくれないのは寂しい。
「ロマーノ」
「ひゃっ」
 声を掛けると、引っ張りっこをしていた仔ヤギも、シャツを口から放して跳びずさった。気付いていないのはロマーノだけではなかったらしい。ロマーノは前につんのめった。
「おっとっと、大丈夫?」
「このっ、見てたなら助けろよ!」
 何食わぬ顔で脇を支えてやる。ズボンが完全に落ち、まるで桃のようなお尻が丸出しになる。きっと形だけでなくて甘さも似ているのだろうと考えると、唇が緩んでくる。おかんむりのロマーノをこれ以上怒らせないよう、スペインは慌てて顔を引き締めた。
「さっき気付いてん。知っとったなら駆けつけたわ」
 駆けつけたのは嘘ではない。スペインからすれば、助けの足を止めさせたのはロマーノ自身だった。スペインの言葉を丸まま信じたロマーノはそれでも言い足りないらしく、手が塞がっていなければ掴みかかってきていたくらいの仏頂面だったが、やがて諦めて顔を上げた。
「じゃあこれで何か作れ」
 じゃあも何も、最初からそのつもりだっただろうに。
「どうしたん、これ」
「もらった」
「誰に?」
「ウマ……」
「うまあ?」
「……みたいな顔のおっさん」
 頭の中でいなないた馬が、ぐにゃりと二足歩行に変形し、見知った男の姿になる。彼の祖父の代から馬屋を見てくれていて、馬と間違えて手綱を付けそうになるくらい馬に似ている。その馬面のおかげか、人望――いや、馬望は他者の追従を許さない。
「分かった分かった、ほんまに似とるよな! 先代が子供産まれた言うから祝いに行ったら、とうとうヤってもうたんかと思ってんで」
「やったって何を」
「ロマーノは何がええ? ケーキにタルトにパイ、ジャムにしてもええし、ソースこしらえて料理に使こてもええな!」
「おっさんに持って行けるやつ。まずかったら許さないからな」
「俺がロマーノのために作るのにまずいわけあらへんやん。そやったら、一回乾かしてからケーキにしよか。ひっくり返しても平気やし。……あれ?」
 無事に興味が移ったのを安心したのも束の間、ロマーノの様子がおかしい。顔を真っ赤にしてぶるぶる震えている。怒らせたのだろうか。「調子に乗るな」か「ひっくり返すわけねーだろ」と、文字通り飛んでくる頭突きを想像したとき、視界の端で動いた薄茶色。
 体を傾けて見ると、先ほどの子ヤギが、ロマーノのシャツの下に頭を潜らせている。更に屈んで親の乳を求める子供の仕草を見て、優しい気持ちが胸を占めた。
「うぁ、ああ……」
 ロマーノの喉から漏れた声が耳に聞こえた。大波の予兆だ。
 火が付いたように泣き出したロマーノは、涙だけでなく、おしっこまで溢れさせた。仔ヤギは乳ではなく尿を口に含まされて、一つ鳴き声を上げると、今度こそ逃げ去った。

 ズボンもパンツもすっかりびしょびしょで、シャツも涙を吸ってしまった。そのロマーノを抱えて帰ったスペインも無事では済まなかったから、二人一緒に体を洗った。他愛のない会話に受け答えするロマーノは何気ない風を装っていたが、声には羞恥心が滲み出ていた。
「それにしても、なんで仔ヤギはくっついてきてたんやろ。ミルクの匂いするのん?」
「……誰が乳臭いって?」
 手早く自分の体を拭いて布を腰に巻き、ロマーノの髪を拭いてやっていたスペインは、冗談半分本気半分で匂いを嗅ごうとしたが、ロマーノに手で頭を挟まれ阻止された。力が弱いとはいえ、こめかみを両側からしぼられると流石に痛い。
「どれだけ怖かったか、お前だって、やられてみれば分かる」
 何を、と問う間を与えず、ロマーノはスペインの腰から布を取っ払って、口に含んだ。小さくて薄い舌が、さっき与えられたものと同じだろう動きをし、どうだ?という目が向けられる。ロマーノは仔ヤギにちんちんを食われそうになった現場の再現のつもりなのだろうが、スペインには「どうぞ食べてください」というメッセージにしか思えなかった。
 ロマーノの腰をがしっと掴んで、一気に胸の高さまで持ち上げ引き離す。
「ものっすごくよぉ分かったわ。からかった俺が悪かった、ごめん」
 神妙な顔で謝る。恐怖によるものではなかったが、スペインは確かに危機を感じていた。