スープが食べたいと思ったときに頭に浮かんでいたイメージはトマトベースのスープだったのに、口にしたのは別の味。腹は膨れたのにどこか満たされない。――今の気分はまさにそれだった。急に人肌恋しくなって足を向けたバルで行き会った女は、夜が明けるより早く別れを告げても、変わらない快活さで送り出してくれた。


 ドアを開けたロマーノはパンツ一丁だった。
「おはよー」
「……今何時だ?」
 ようやく白み始めた空の下、スペインは昨晩ねじ込んだはずの腕時計を探してポケットに手を入れたが、見つからない。それもそのはず、昨晩穿いていたズボンはランドリーボックスの中だ。
 スペインが時計を探したその隙に、ロマーノはドアを閉めてしまった。
 錠が落ちる音が人っ子一人通らない通りに響く。
「ちょおっ」
「帰れ酔っぱらい」
 ドア越しだというのにロマーノの声の鋭利さは衰えない。
「酔ってへんよ!」
 ドアに取りすがったスペインは、控えめの、しかし強い声で否定したが、ドアの向こうにいるはずのロマーノはうんともすんとも言わない。寝室に戻ってしまった可能性が頭を過ぎる。まさかと思えど否定しきれるだけの材料はなく、だからといって肯定もできず、となると帰ることもできない。
 スペインはその場にしゃがみ込んで、ひんやりと冷たいドアに額を当てた。

 力尽きる寸前の仔猫のような声でロマーノを呼びながら、弱々しくドアを叩くスペインを哀れに思ったのか、それとも本当に「近所迷惑だから入れ」なのか定かではないが、ロマーノはスペインを自宅に入らせた。ほっとした顔のスペインとは対照に、眠りを妨げられたロマーノは仏頂面だ。
「何の用だ」
 用向きを尋ねずに拒否していたところがロマーノらしいと、常のスペインなら笑ったり呆れたりするところだったが、今のスペインにそんな余裕はなかった。仁王立ちするロマーノにふらふらと抱きついて、そのままそこで眠っているように深く穏やかな呼吸をした。
「……ロマーノやぁ」
 そして、感嘆したような息を吐く。
「ベッド行こ。めっちゃ眠いねん」


 ロマーノが空けてくれた場所に、リビングから拝借してきたクッションと一緒に横になる。すっかり耳に馴染んだ、ベッドが軋む音。ロマーノが寒くないように毛布を掛け直すと、どちらも動いていないのに距離が縮まった気がした。
「俺が誰かといるっていう可能性は考えなかったのか」
 スペインがベッドに入る間微動だにしなかったロマーノは、拗ねたような口調で言って、背中を向けてしまった。
 スペインは空いてしまった隙間を埋めようと体を寄せる。ロマーノはもう眠ってしまったのだろうか。拒まない代わりに何の反応も示さないことに一抹の寂しさを感じながらも、構わないのならとロマーノの体を自分の腕の中に抱き込む。うとうとしながら、滑らかな首筋に鼻を擦りつける。さらさらとして指通りのよいロマーノの髪は、癖のない直線的な見た目に反して柔らかい。整髪料を付けていない髪の手触りや、素のままの肌の匂いを知る者はそう多くないのだと思うと、満足感が胸を占めた。
 ロマーノの匂いは果実のようだと思う。かぶりついて、溢れ出す果汁を啜り上げたい。残らず飲み込んで自分だけのものにしてしまいたい。そんな衝動を起こさせる、挑発的な香りだった。
 比べたことが知れたらロマーノは怒るだろうが、イタリアのそれは石鹸のようで、一緒にいると安らぎを感じる香りだった。果実は食べられる。石鹸は食べられない。ロマーノに抱いている感情とイタリアに抱いている感情は、言葉にすれば同じく「好き」であり重なる部分も多いのに、行動を起こすとこうも違ってくるのは、本人達の質によるところも多いのではないか。スペインは自身の本能的な衝動を、肯定的かつ責任転嫁気味に捉えていた。
「ヤリ足りねーのか?」
 スペインがロマーノの肌にむしゃぶりついていると、ロマーノがいきなり寝返りを打った。
「な、」
「顔見りゃ分かる。何年一緒にいると思ってんだ」
 至近距離に迫ったロマーノの顔と発言に面食らったスペインは、自分はそんな顔をしているのかと目をぱちぱちさせた。ロマーノは人の悪い笑みを浮かべて――彼の「笑顔」は大抵これであるが――逃げ腰になったスペインを抱きしめた。おかしげに笑う吐息が耳をくすぐる。
「こんな朝っぱらから石鹸の匂いさせて、明らかに着替えたばっかりな服で。眠いって言う割に疲れた顔じゃねーし。バレないと思う方がどうかしてんぞ」
 で、どうするんだ? と聞いてくるロマーノの声は、誘っているのかからかっているのか判らない。表情を確かめようとしても、さっき開いたことが嘘だったみたいに、瞼がとろとろと落ちてくる。スペインは考えるのを諦めて、抱きしめてくる腕に身を任せた。
「起きてから考えるわぁ」
 あくび混じりに言って瞼を落とすと、ロマーノの腕は優しい抱擁に変わった。
 ロマーノに抱かれながら眠るのも悪くない。ジャムを煮詰めているような温かさの中に、スペインの意識は沈んでいった。