棚を拭いていたら上に乗っていた物をひっくり返した。下に転がり落ちたものを拾い上げては棚の上に戻す。何がどこにあったのかなんて覚えてないけど、触られて困るような部屋なら掃除しろなんて言わないだろうから、並べ方は適当で構わないだろう。

 片付ける途中で見つけた金の細工品。偉い奴が被ってそうな冠。
 美術品も工芸品もそれなりの数を見ているけど、その冠の装飾は初めて見るタイプだった。もしかしたら大陸のものなのかもしれない。特に秀でた細工だとは思わないけど、なんとなく気になる。今日の仕事が終わったらスペインに聞いてみようか。スペインの家の奴は大陸の話をするときいつも嬉しそうだから、スペインも聞かれて嫌な顔をすることはないだろう。

 少し重たいそれを棚の上に置こうとした丁度そのときに、部屋にじいさんが入ってきた。

 ***

 珍しく静かな夕食。
 静かな原因は、ロマーノがしゃべらないこと。自発的に話しだすことがないだけで、話しかけたらちゃんと返事するのだが、本当に答えるだけなのだ。文句すら言わないとなると不安になる。もしかしたら、疲れているのかもしれない。
 言いつけた仕事量はいつもと同じだったし、休息も十分取らせているつもりだが、小さな体には疲れの溜まり方が違うのかもしれない。例えば今日だけでなくて、前日までの疲労を引きずっていたのだとしたら大変だ。
「今日はご飯食うたらすぐに寝えや?」
 スペインの提案に、ロマーノは皿に目を落としたまま首を振った。
「そう言わんと」
「……スペインは、まだ寝ないんだろ?」
「俺はまだ仕事残っとるからなあ。でも自分の部屋でできる仕事やから持って入れるわ。一人で寝るんが嫌やねやったら俺の部屋で寝てるか?」
 断られるだろうという予想は外れて、ロマーノは小さく頷いて「ごちそうさま」と言った。


「はー、もう、どないしたんやろ」
 数冊の本と書類を重ねた上にペンとインク壷を乗せて、スペインは自室へ急いでいた。
 元気なときならば「誰がお前なんかと寝るか、ちくしょうめ」とでも返ってきそうなところが、ひとつ頷いただけで済んでしまったのだから、本格的におかしい。今朝会って掃除する箇所を伝えたときは普段どおりに文句を言っていたし、シエスタの時間もしっかり寝ていた。何かあったとすればその後だ。
 部屋に入ると、ロマーノはすでに来ていて、ベッドに寝転んで本を読んでいた。
 見覚えのある――というか、忘れようもない本。
「スペインはこれ、好きか?」
 スペインが入ってきたことに気付いたロマーノは、本を閉じて表紙を見せながら尋ねた。
「好きいうか、毎日読んでるわけやないけど、聖書がない生活は考えられへんなあ」
 机の上に持っていた荷物を置いてからベッドに腰掛けて、聖書を受け取ってページを捲る。
 表紙はすっかり手擦れしているが、手に馴染むそれが逆に良い。どこを読んでも憶えのある記述ばかりなのに、時には新鮮味が感じられることもある。
 斜め読みしながら、スペインは脇に寝転んでいるロマーノを見た。ロマーノが口をぎゅっと閉じるのは、言いにくいことを言う前の癖だ。こちらから聞こうとしたら意地を張って引っ込めてしまうだろう。
「俺今から仕事するけど、話しかけても構えへんから。眠くなったら遠慮せんと寝てな」
 言うまで待とう。
 そう判断して立ち上がろうとしたところを、上衣の裾を掴んで引き止められる。
「スペインは…………大陸で何をしてるんだ?」
 簡単なことなのに、妙に間の空けられた質問。
「この間珍しい食べ物とか色々見せたやん? ああいう向こうでしか作ってへんかったものと、こっちでしか作ってへんかったものをやり取りしてるねん」
 嫌な予感。さっきと同じくその予想が外れることを願いながら、スペインは答えた。
「物じゃなくて、人に、何をしてるんだ?」
「……この本に書いてあるみたいな教えを伝えてるんかな」
 今にも発言を引っ込めてしまいそうな不安げな瞳をしているのに、はぐらかした答えに流されてはくれなさそうな雰囲気。ロマーノがこんな状況で目を逸らさないのは珍しい。

「俺がスペインと同じ神を信じてるんじゃなかったら、どうしてた?」

 今日は、散々な日らしい。
 それはありえないと否定する言葉が、喉に引っかかって出てこなかった。
 険しい顔で沈黙したスペインに、ロマーノはそろそろと裾を掴んでいた手を離した。
「ロマーノは、誰に、何を聞いたんや?」
 なんでもない風を装うにも限界がある。表情と声を明るくしようという努力が実らなかったことは、ロマーノの表情の変化を見ればよく分かった。
「……スペインの家の奴が、国を消して、今も大陸の人を酷い目に遭わせてるって」
 口止めされているわけでもあるまいに、ロマーノは話を聞いた相手の名前を口に出さなかった。馬鹿なことを吹き込んだ奴は名乗らなかったのかもしれない。
「大陸に居た国が消えた原因に俺らがあるんは事実やし、酷い目に遭ってる人がおるっていうのも間違いちゃうけど、俺らはなんとしてでも大陸に神の教えを根付かせなあかんねん。それが上から与えられた使命で神のご意思でもあるからな」
「スペイン達は土地とか金銀が欲しいだけなんじゃないのか?」
「えらいひどい誤解やな……俺らが望んでるのは、大陸に住んでる奴らがバカげた偶像崇拝をやめて真の神の教えに従うようになることやで。その過程で利益が発生することはあっても、それはこっちの有用なもんを向こうには不要なもんと交換する、お互いにお得で正当な取引や。布教を妨げる奴を掃って、その結果手に入ることもあるけどな。でも大陸の奴らがどれだけ犠牲を払っても、教えを受け入れた時点でマイナスは絶対になくなる」
 話しながらも、スペインは勅書の内容と大陸人に伝えた降伏状の内容を復唱していた。
 死傷者の数だけなら現在の状況は確かに酷いものかもしれないが、それを補うに足る利益が生まれている。そもそも連中がすんなり改宗しさえすれば不幸な目に遭う人間などいなくなるのだ。責は向こうにのみあり、こちらに問題はない。
「さっきの質問の答えやけど、たとえロマーノが異教徒やったとしても、話を聞いて受け入れてくれるんなら、ロマーノはもちろんロマーノの家の人にも傷つくようなことはせえへんで」
「もし俺が聞かなかったら?」
「俺はそんなことする子はロマーノと違うと思うけどな。でも、その時はちゃんと聞いてくれる気になるまで付き合ったるから心配せんでええで。ロマーノが幸せになるためやったら、多少の犠牲なんてなんのそのや」
 明るい声で締めたが、ロマーノはすっかり俯いてしまっている。
「……さ、そろそろ寝え。そんなことばっかり考えるんは疲れてるからや」
 スペインは手をロマーノの頭に乗せて、笑った。


 仕事を終えたスペインがベッドに戻ると、ロマーノは頭の下に聖書を敷いて眠っていた。
 起こさないようそっと頭を持ち上げて抜き取り、代わりに枕を宛がう。
「……ロマーノは俺のところにおる限りは消えたりせえへんから、安心し」
 スペインはベッドに横たわると、ロマーノを引き寄せて腕の中に囲い込みながら、眠りに就いた。