「のぞきなんかするから」
「やるんはええけどバレたらあかんで」
「お前らのせいだろ!」
プロイセンが食ってかかると、スペインとフランスは顔を見合わせた。
「避けへんのが悪い」
「気づかないとか、よっぽど熱中してたんだねえ」
「ケンカやったら後ろ取られたりなんかせんのになあ」
女子水泳部の着替え――正確な表現をするならハンガリーの着替え――を覗いていたプロイセンは、背後から忍び寄ったフランス、もしくはスペインに膝カックンされた。きちんと閉ざされていたのならプロイセンを受け止めたドアは、覗き見のための隙間が開いていた。倒れた先には当然、ハンガリー。
勇敢な戦士に与えられたのは、新聞の見出しになれるような大ケガと、屋外プールの清掃だった。
どちらが言い出したのか、どちらが実行したのかは、この際重要ではなかった。どうせ確かなことは判りはしない。プロイセンは両人をプールへと引っ立てた。始めのうちは珍しさも手伝って比較的真面目に掃除していたが、飽きるのも早かった。自然と雑談が多くなる。プロイセンの発した「めんどくせえ」という言に応えて、冒頭の会話があった。
「お前のそういう初々しいとこ好きだぜ」
そう言ったフランスが寄越したウィンクを合図に、プロイセンはデッキブラシを握り直した。
「アイスは?」
「プロイセンが今行ってる」
開口一番に尋ねたロマーノは、スペインの答えを聞いて、巨大なケーキにかぶりつく寸前で夢から覚めてしまった子どものような、あからさまに落胆した顔をした。スペインの目が笑ったのを見ると、ごまかすようにプールサイドを見回す。転がったデッキブラシは三本。ここにいるスペインと、アイスを買いに走っているプロイセンと、あと一人。
「フランスは人員の増員を求めてお家芸のストライキ中」
スタート台に腰掛けたスペインは、日よけテントを顎で示した。夏色を帯び始めた空の下から見るとテントの下は薄暗く、ベンチに横たわったフランスの体は上手い具合にタオルが掛けられているせいで、一見しただけでは用具のように見える。
「……アイス貰ったら帰るからな」
「えー」
「野郎しかいないプールに用はねえ」
スペインはもう一度「えー」となおざりな抗議をすると、スタート台から離れ、はしごからプールに降りた。掃除のために少しだけ残された、ある意味では浄化された緑の水の中で足を遊ばせる。
「なぁ、ちゅーせぇへん?」
プールの縁に手をかけたスペインは、ロマーノを見上げて笑った。
「こんな太陽照ってるとこでしたことないやん」
「……お前、は」
ロマーノは口ごもって眉を寄せる。スペインは、今まで提案した「安全で、愉しいかもしれないこと」を拒絶された例がないことを自信の根拠にして、フランスが寝ているベンチを見たロマーノにだめ押しした。川縁で愛を語らうカップルに混じりたいとは望まないから、少しだけ。
「あっち側の端やと死角やねん」
「俺様のお帰りーぃ!」
高らかに帰還を告げたプロイセンは、アイスが入ったビニール袋を握った突き出した。その後ろではドイツが、プロイセンがハンガリーにプール掃除を依頼された理由の解明に努めている。
「あれ? 兄ちゃん?」
ドイツの背中から顔を出したヴェネチアーノは、スペインの隣に意外な人物の姿を認めた。入り口の反対側、日よけテントが張られている方で、溺れるわけでもないのにプールの壁にしがみついたロマーノは、とんでもなく驚いた顔をしていた。
スペインはヴェネチアーノを見て顔を輝かせた。
「イタちゃん!」
「助っ人参上! あとで日本も来るよー」
ポーズを決めて見せてから、ヴェネチアーノは二人に駆け寄った。その背中をプロイセンが追って、まだ固まっているロマーノにアイスを入れた袋を中が見えるように広げて見せた。カラカラに乾いたプールサイドで足を滑らせる恐れは小さかったが、それでもドイツは二人が無事に着いたことに安堵する。
「なぁなぁドイツ、プロイセンはええ兄貴やな」
「? ああ」
プールから出てきたスペインが、ドイツの肩に手をかけた。ヴェネチアーノと、プールから救出されたロマーノがアイスを食べる姿を写真に撮っているプロイセンを、いつ諫めるか考えていたドイツは、何もこのタイミングでなくても、とスペインが口にした「いい兄貴」という言葉を頭の中で復唱しながら思った。
「でも似すぎるんも考えもんやでー。な、今度俺と遊びに行かん?」
「それは……」
その「遊び」は、スペインの顔を見る限り、ろくでもないことは確かだった。
「プロイセンはなー、ええ奴やねんけど、なっかなか……。あ、そうや。ドイツがまず俺と行って、後でプロイセン誘たってくれたら――」
「なー、フランスどこ行った?」
畳みかけようとしたスペインは、背中に投げられたプロイセンの声にわざとらしく舌打ちをした。
「ベンチんとこにおるやろー」
「いなかったぜ」
頼んでいたアイスを受け取りながらベンチを見た。タオルだけだった。
「……あちゃー」
「あいつのアイスは山分けだな。もちろんフランスの奢りで」
プロイセンはドイツにもアイスを渡して、自分のアイスの袋をバリッと開けた。
ベンチの手前では、ロマーノとヴェネチアーノが互いのアイスを交換して食べ、頬を寄せるようにして和やかに談話している。だからフランスがいないことが分かっても、スペインもプロイセンもベンチの方向から目を離さない。ドイツまでその光景を見ていたせいで、三人の視線に気づいたイタリア兄弟が悲鳴を上げるまでの間、奇妙な沈黙が生まれた。
「遅れました!」
漫画研究会の部室(倉庫)を片付けて鍵を閉め、あずきバーを持った日本がプールに到着したとき、プールの掃除はまだ始まっていなかった。胸を撫で下ろす一方で不安になった日本の心中に真っ先に気づいたのは、泣き叫ぶヴェネチアーノと突っかかってくるロマーノを宥めていたドイツだった。
「……食べ終わったら始めようか」
「できる限りゆっくり食えよ!」
袋に生じた水滴と、少し軟らかくなった感のある中身を確かめた日本は、「努力します」と頷いた。
ほどなくしてセーシェルを連れたフランスが戻り、進行具合のチェックに来たという名目で手伝いに来たハンガリーも加わったプールの清掃作業は、時々脱線しながらも、人数が増えた分以上の賑やかさと共に終着点に向かった。
「明日筋肉痛だよ……」
「明後日の間違いとちゃうの?」
「ひどい! まだ翌日に来るよ!」
「日ごろ鍛えとかないからそんな心配しなきゃならねーんだよ」
軽口を叩きながら、掃除用具を片付け終えたフランスとスペイン、プロイセンの三人は、適度に距離を取って歩いていた。ハンガリーはプールの鍵を返しに行き、その他のメンバーは一足早く寮に戻っている。近頃目立って長くなり始めた日のおかげでまだ明るい。
「今日の夕飯何かなー」
世界各国が集まる学園では食事の時間や献立はある程度の自由が利く。それでも完全に自由とはいかないから、一日の締めくくりをどうするかは重要で、気にせずにはいられないことだった。
「デザートは決まってるんだろ」
「変なとこから決めるんだな。それとも買い置きか?」
「買い置きて言うんか、予約て言うんか……。だんだん甘なって、たまに酒の代わりにもなるねん」
「なんだ、謎かけか? 美味いのかそれ?」
「あーあ、胸焼けしてきちゃった。プロイセン、夜抜け出して遊びに行かない?」
「悪ぃ、ヴェストが晩飯食った話があるって言っててよ。まったく頼れる兄貴やるのも辛いぜー。……おっとやべぇ、あいつ待たせてたんだ! じゃな!」
軽く片手を上げて駆けだしたプロイセンに、フランスもスペインものんびりと手を振った。
「真面目なんだか不真面目なんだか」
「ええ奴やんなあ。……せや、俺プロイセンのことバカにできへんなー。フランスがおらんようなったん全然気づいてへんかった」
「気づかれたら俺の気遣い台無しじゃん。それにロマーノにも悪いだろ。熱中してやれよ」
「……相変わらずええ男やなあ。俺が女の子やったら付き合うてもええわ」
「男と付き合ってる奴にそれ言われてもねー」
肩をすくめたフランスは、校舎の前できょろきょろしている人影――彼女が頭を動かす度におさげが揺れる――を見て、スペインの尻から離した手を大きく挙げた。
「セーシェル!」
「あー、フランスさん! 戻るなり眉毛に追い返されたっすよ!」
「すぐ戻るって言っといて!」
「そう言っても連れて帰ってこいって言われたっす!」
さすがと言うべきイギリスの読みに、フランスはもう一度肩をすくめた。
「モテる男は辛いなあ、行っといでやー」
「夜の予定が埋まってよかったよ。……夜食は最悪だけど」