木々の緑は遠目に見ても鮮やかで、茂った葉が照り返す陽光は目に痛いほどに強い。中天を過ぎた太陽のじりじりとした熱を含んだ風が畑地の上を吹き抜ける。風に吹かれた草木が一団となって揺れる様はまるで動物が群れをなして動いているようで、見ていたら余計に暑くなった気がした。
目の上に手のひらをかざして畑の中を見渡したロマーノは、細めた視界の中に探し人の姿を認めて、その名前を呼んだ。声が聞こえたのかどうかは分からないが、スペインはその声が聞こえたかのように体を起こして辺りを見回した。
スペインは畑の沿道に立つロマーノと視線がかち合うと大げさなほどに手を振った。植わっている作物の関係で多少蛇行してはいるものの、ほぼ一直線にロマーノの元へと駆けてくる。
「なんや、迎えに来てくれたん?」
駆け寄った勢いに任せてロマーノに抱きつきそうなほどスペインは嬉しそうだ。抱きつかなかったのは手が土で汚れていたからだろう。なおざりに払いながらも視線はロマーノに固定している。
「お前がすぐ戻るって言ったくせに遅いからだろ」
「手伝ってくれてたら待たずに済んでたで」
少しも厭味を含まない声音で言われて、ロマーノは言葉に詰まった。
畑に一緒に行かないかと誘うスペインに一人で勝手に行って来いと言ったのも、見送ってもくれないのかと冗談めかして寂しがるスペインをとっとと行けと家から蹴り出したのも、ロマーノなのだ。二人のいた場所がスペインの家だったことは言うまでもない。
「今度は一緒に来てくれるやろ?」
どう返すかあれこれ考えていたロマーノは、スペインに問いかけられて意識を引き戻した。スペインはロマーノが一緒に来るものと決め付けて、もう歩き出している。家とは全くの逆方向。
「どこ行くんだよ」
「折角外に出てんし、家に帰るのはちょっと遊んでからでもええやん」
「だから、遊ぶっつったってどこでだよ」
眉を寄せたロマーノに、スペインは「ええから」と笑って、ついて来るよう促した。
重なり合った枝葉を縫って注ぐ太陽の光は畑地の沿道で感じたそれよりも柔らかい。木漏れ日が踊るスペインの背を追っていたロマーノは、地面に浮き出た木の根に躓いた。転ばなかったしスペインも気付いていないようだったから心の中だけで舌打ちして歩き始めたら、
「足元気ぃつけてな」
今更な、しかしタイミングのよすぎる言葉を寄越された。
真面目に戸締りをしたせいで蒸し風呂になっているだろう部屋を思えば風の通る屋外の方が断然いいが、大の男二人で川遊びというのもどうしようもないものがある。他の選択肢を考えてみるロマーノとは対照に、そうは思わないらしいスペインはズボンの裾を膝上まで捲り上げて水に戯れている。
目の前を流れる小さな川にロマーノは見覚えがあった。今よりも小柄で「少年」といっても差し支えなかった頃のスペインと、そのスペインの腰ほどの背丈しかなかった自分が一緒に遊んだ場所。
だから余計に、なぜ今更こんな所で、と思ってしまうのかもしれない。
「あ、魚や」
スペインが能天気な声がロマーノの思考を遮った。見ると、満面の笑みで手招いている。
「ロマーノおいで、魚おるで」
「まさか捕まえるとか言わないだろうな」
「食費浮くんやったらそれもええな」
本気か冗談か判らない笑い顔。付き合いきれないとばかりに視線を外すと、川縁に脱がれた二人分の靴が目に入った。靴を履いていた足は既に水の中にある。何だかんだ言いながらも結局スペインと一緒に行動してしまっている自分に呆れて、ロマーノは水を蹴り上げた。
「あ」
気の抜けた声に今度は何だと振り向くと、スペインが足を滑らせて今にもこけそうになっていた。バランスを取ろうとしたのか、助けを求めたのか、伸ばされた手。
駆け寄ったロマーノがその手首を掴んだ瞬間、驚きに見開かれていたはずのスペインの目が笑みの形に変わった。
状況を理解した時には既に遅し。逆に取られた腕が力任せに引かれた。
上がった水音をかき消すように、スペインの笑い声が響いた。
足元に水溜りを作りながら並んで濡れた服を絞る。川に来る予定はもちろん、びしょ濡れになる予定もなかったのだから、拭くものなんて持ってきていない。
「あーあ、パンツまでびしょびしょや」
「自業自得だろうが。つまんねぇ演技までして。魚なんていなかったんだろ」
言葉尻を捕らえるように飛び跳ねた魚に、ロマーノはぷいと顔を背けて、スペインは噴き出した。
「次に来た時こそは捕まえよな」
夏の日は長い。ロマーノは目に見えて傾いているのに光も熱も失わない太陽を睨んだ。生乾きの服が体に張り付いて気持ち悪いが、乾くまで脱いだままにしているわけにもいかないから、暑いから歩いているうちに乾くだろうというスペインの言葉を容れて、家路を辿る。
「ちょっと遊ぶどころか結構時間経ってるぞ。仕事大丈夫なのか」
「ひょっとして心配してくれてんの? 嬉しいなあ」
「言ってなかったけど、俺が出てくる時、お前の上司が探してたぞ」
「えぇっ」
「怒られるんじゃないのか」
ロマーノの思わぬ告白にスペインの表情は硬くなる。それを見たロマーノは、してやったりとばかりににやりと笑った。しかし、その笑みはすぐに引っ込んだ。
「まあ、大丈夫やろ。待たせといたらええわ……ってロマーノ!?」
「走るぞスペイン」
「いや、ロマーノ、上司くらい放っといても大丈夫やって、な?」
真剣な顔で手を引いて走り出したロマーノに言い聞かせるようにスペインは言った。ロマーノの意思に従うように小走りになっている一方で、ロマーノの手を自分側へ引いて勢いを殺いでいる。
「そんなこと言って怒られてたじゃねぇか。いいから走れよっ」
ロマーノの頭には、小さい頃にあの川で遊んで帰った後、スペインが一人上司に仕事をほっぽり出して遊んでいたことで雷を落とされている姿が浮かんでいた。遊びに誘われた時は上司に自分を躾けろとでも言われたのだろうと思っていたが、実際にはスペインが自分の裁量で遊びに連れ出してくれていたのだ。遊んでいる最中に、仕事はいいのかと聞いて返ってきた答えは、今と同じだった。
「ここ最近は怒られてへんからゆっくり帰ろうな」
「俺が走れって言ってるんだから走ればいいんだよ!」
ロマーノは我ながら子供のようだと思ったが、自分のせいでスペインが怒られるのは嫌だという理由も十分に子供っぽいから、スペインの抵抗がなくなったのをいいことにそのまま無言で駆け続けた。たとえ間に合わなくてスペインが怒られても、何もしなかったよりは気分もましだろう。
道端に生い茂った雑草が、走る二人に釣られるように靡いた。