引っ張り出されて来てみた広場では、吟遊詩人が歌っていた。様々な音が混じる中でもよく通る歌声。どこか聞き覚えがある言葉をよくよく聞いてみれば、ロマーノの家の言葉だった。歌詞の意味が分からなくとも何となく心が浮き立つような、楽しげな旋律。何よりも歌い手の表情が良い。それに美人だ。
横目で見ると、ロマーノはうっとりと聞き入っていた。その眼は美しい女性を見た時に見せる目ではなく、芸術を愛おしむ眼差しだった。
「よかっただろ」
「きれいやったなぁ」
得意げに笑うロマーノに、実はよく分からなかったなどと言えるはずもなく。スペインの感想に嘘はなかったが、ロマーノと共有できる感情はほとんどないに違いなかった。それを知ってか知らずか、もう一度吟遊詩人のいた方に向いたロマーノの目が、今度は分かりやすい輝き方をした。
一座の一人らしい男が、色とりどりのキャンディの入った箱を掲げている。
着の身着のままやってきてしまったせいで、ポケットの中はすっからかんだった。普通の店ならツケにすることもできたが、旅芸人相手ではそれもできないし、ましてや屋敷まで金を取りに来させるような値段でもない。何もないと分かっているポケットをもう一度探ってから、スペインは手をポケットから出して、ぱっと開いた手のひらを空に向けた。
「ごめんなぁ、親分今お金持って来てへん」
「べ、別に食いたいんじゃねーぞ!」
「俺も食いたかってんけど」
ああいったものは子供の目を引くようにできているのだ。現に、親の手を引き買ってくれるようせがむ子供は一人二人ではない。さっきの歌い手は財布を出させるには持って来いだろう。それだけ仕掛けが分かっていても心惹かれてしまうのだからどうしようもない。
ロマーノと二人で立っている姿が周りにどう見えるのかは知らないが、親とその子にはとても見えないだろう。スペインは理由のない寂しさを感じて、抜けるような空を見上げた。
こちらに気づいた菓子売りから隠すように、ロマーノの背を押した。
「せっかく出てきてんし、親分のとっておき見せたるわ!」
石畳の路地を抜けて、茂みを乗り越えて土の道に入る。慣れない道のせいで後れがちになるロマーノに手を差し出すと、今日は珍しく握り返してくれた。速く歩きすぎないよう、スペインはロマーノの歩みをちらちらと確認する。
ロマーノが呼びに来たことは、仕事を放り出す絶好のチャンスだった。屋敷に戻れば当然上司のお小言が待っているだろうな、と考えて、スペインは頭を振った。戻る頃には上司はメリエンダのことで頭がいっぱいになっているだろう。そう願いたい。
崖に挟まれた天然のトンネルを通り抜けると、傾き始めた太陽を跳ね返して黄金色に輝く海が見えた。海を望む岸壁や漁師小屋が、黒いシルエットとなって浮かび上がっている。
「ふわぁ」
「今からもっとすごなるで」
スペインは歓声を上げたきり、ぽかんと口を開っぱなしにしているロマーノを抱き上げた。
「掴まっとってなー」
ぼこぼことした、砂が固まったような岩が削れたような斜面に足をかける。
「お、おいっ」
「大丈夫、大丈夫」
スペインは斜面を滑り落ちるようにして水際に降り立ったが、苔だか海草だか分からないものを踏んだ。「うわ」と短く声を上げて、足元に穴が開いたようにがくんと腰を落とした。声もなくしがみついてきたロマーノを、無意識に抱きしめて踏みとどまる。
「……あっぶなぁ」
「だから止めろって言っただろうが!」
「男にはやらなあかんときがあるねんで」
「決まってねーぞ」
顔が若干引き攣っていることをロマーノが指摘する。スペインは頬を強ばらせたまま笑うとゆっくり膝を伸ばして肩を解し、ロマーノを抱き直した。ロマーノをしっかり抱けば抱くほど、まだ収まらない心臓の鼓動が伝わってしまうと分かっていたが、それでもスペインは動じていないふりを貫いた。
赤みを帯びてきた太陽がロマーノに見えるよう、体を斜めにする。
「今日は格好悪いとこ見せてるなぁ」
「……格好良くはねーけどよ、格好悪くもねーぞ」
「そか」
見ている間に、太陽はどんどん沈んでいった。空は色に富みながらも濁ることなく、刻一刻と色調を変えてゆく。太陽の光が弱まり、星としての輪郭がくっきりと浮かび上がると、代わりのように海面がきらきらと輝いた。腹を桃色に染めた雲が尾をたなびかせた。
「きれいやなぁ」
「うん……」
「ロマんちのオレンジみたいや」
頬に夕日の色を映したスペインは、忘れていた呼吸をゆっくりと取り戻した。いつの間にか、腕の中の重みがぐっと増えていた。どこまで力をいれていいか迷うようなぐにゃりとした小さな体を、起こさないよう胸に抱き寄せる。淡い光を宿した髪に頬を寄せると、太陽と同じ匂いがした。