家の鍵を開けようとポケットに手を突っ込んだスペインは、本来あるべき場所にキーケースがないことに気付いた。鞄の中と他のポケットを探るが、やはり、ない。
 家に入れないという事実が頭に浮かんだ瞬間、背中から腕にかけてひやりとしたものが走った。記憶の限り確実に施錠されているのだが、一縷の望みをかけてドアノブを捻る。
 意外なほどあっさりとドアは開いた。

「遅いぞスペインこのやろー」
「ロ、ロマーノ!?」
 ワンルームしかないこの「家」は、ドアを開けるとどん詰まりの物干しまでを一直線に見通せる。盗られるような価値ある物など何もないから、家の鍵が開いていたことにスペインは焦りよりも先に安堵を感じたが、目に飛び込んできた光景には流石に焦った。
「なんで? なんでロマーノが俺の家におるん?」
 混乱するままに問いを投げかけると、ロマーノはやや居心地悪そうに目を逸らした後、返答代わりに見慣れたキーケースを投げて寄越した。
 鍵の擦れ合う音をさせて手のひらに収まったキーケースを見つめながら思考をぐるりと一周させたスペインの表情が、笑いと情けなさの入り混じったものに変わる。恐らくは今朝、会社の倉庫で擦れ違った時だ。そっけなく軽く頭を下げただけのロマーノに、「先輩に会うたら『おはようございます』やろー」と、肩を抱いて両頬を引っ張って無理やり笑わせたその時に、ポケットから抜かれたのだろう。
「気付かんかったなあ」
「俺がそんなヘマするわけねーだろ」
「そんなとこばっかり育たんでもええやんか……でもなんで」
 言いかけてスペインは、部屋の真ん中に鎮座している簡易テーブルの上に、ラップの掛けられた食事が乗っていることに気付いた。ロマーノからすれば、やっと。
「作って、待っててくれたん? 俺のために? うわー! めっちゃ嬉しいわ!」
 スペインはキーケースをスリを咎める言葉と一緒に放り捨てて、滑り込むようにロマーノに駆け寄ると力いっぱい抱きついた。
「お前が遅いから冷めちまっただろうが、ちくしょうめ」
 抱きつかれたロマーノは、抱き返しも突き放しもせずに、憎まれ口を叩いた。


 久しぶりの自分以外が調理した料理を、スペインは食べる手も休めずに褒め続けた。最初のうちは「いいからさっさと食え」とか「誰が作っても同じだ」とかいうロマーノの相槌があったのだが、スペインの絶えることなく続く賛辞にすっかり顔を赤くしたロマーノが顔を伏せてからは、スペインが一人壁打ちを続けていた。その後の会話らしい会話といえば、黙りこくったロマーノを心配して「トイレは玄関向かって右側やで」と言ったスペインに対してロマーノが「鈍いのも程々にしろよ!」と怒鳴り返したくらいだ。
 そして、食べ終わるやいなや、ごちそうさまを言う暇も与えられずに、スペインは風呂場へと追いやられた。消化に悪いとぼやくスペインの声を打ち消すようにタオルが投げ込まれる。


 頭に降りかかるシャワーの水が湯に変わった丁度その時。
「スペイン!」
「わっ、何やのロマーノ。一緒に入りたいんか?」
「バカ言うなちくしょうが。洗剤もうないぞ、新しいのどこだ?」
 スペインはノックなしで浴室の戸を開けられたことに少し驚いたが、用件を聞いて、ロマーノは一つのことを考えるとそれしか見えなくなってたな、と小さかった頃を思い起こした。シャワーカーテンに遮られて見えないのをいいことに笑みを浮かべる。いつまでも幼さの残る部分を見せるから子供扱いが止められないのだ。言ったら怒るだろうし、なくしてしまうのも惜しい気がするから本人には言わないが。
 思考を止めて、湯も止めて、カーテンを開ける。
 洗剤の空容器を手にしたロマーノがドアから顔を覗かせていた。
「食器洗ってくれてるんか、ありがとうなー! ええと、洗剤なあ、予備ないねん。明日安売りするからその時買おうと思って。悪いねんけど水入れて使っといて」
「水入れるのはいいけど」
 ロマーノは容器を傾けて底に僅かに液体が残っていることを確認しながら問うた。
「お前、店開いてる時間に帰ってくるのか?」
「え……あー、無理なんかなあ?」
「俺が知るかよ」
「今日と同じような時間に帰社して、日報書いてピッキングして……無理やな」
「じゃあ俺が買っといてやるよ」
「え? ロマーノが?」
「なんだよ。少なくともお前よりは上がるの早いから無理じゃないだろ」
「いや時間やなくて、電車途中で降りなあかんやろ」
「定期使える範囲だから構わねーよ」
 言い終わるが先か閉めるが先か、ロマーノはスペインの返事も待たずに戸を閉めた。


「あれ、ロマーノ、帰るん?」
 風呂上りのほこほこした空気を纏って自分のタンスから下着を引っ張り出していたスペインが、背後で動いた空気に振り向くと、ロマーノが自らの鞄を持ち上げて玄関に向かうところだった。
「もう用事済んだし」
「今から電車やったら乗り換えの途中で電車なくなるで。タクシー呼んだるからそれ使い」
「金ないからいい。最後の乗り換え駅からなら歩いてでも帰れるし」
「まだ今週始まったばっかりやのに無茶したらあかんて。タクシー代くらい俺が出したるから」
「いいって。だいたいお前も金ないだろ」
「それやったら泊まって行き」
「スペイン、お前さっき今週始まったばっかだって言ったじゃねえか。明日も会社だぞ。俺着替えなんか持ち歩いてねえよ」
「シャツは俺のん使ったらええし、気になるんやったらネクタイも貸したる。どうせ俺は使わへんからな。好きなの使い。パンツはそこの角のコンビニで売ってる。さて、他にいる物あるか?」
「……とにかく、パンツ先に穿けよ」


「一緒に寝るなんて久しぶりやなー」
 ロマーノがスペインのシャツを体に合わせてみてサイズの違いを気にする傍らで、スペインはウキウキした様子でベッドを整えている。それを横目で見たロマーノは、まさかの予測が現実になっていることを知る。
「一緒に寝るのか……?」
「どっちかが床で寝ようにも、うちに布団の予備ないねん。一緒は嫌か?」
「嫌ってか、狭いだろ」
「俺は平気やで。それにそれ以外にないやん」
「やっぱり――」
「あかんて、今から帰ったら湯冷めして風邪ひいてまう。詰めたら大丈夫やから大人しく一泊して行き。それか抱っこして寝たろか? あったかいでー」
「いらねーよ、気持ち悪い」
「ひどっ」
 スペインは本来なら一人の部屋で誰かと話せるのが嬉しくて、笑顔を絶やさない。
 布団から身を乗り出して目覚まし時計の時刻を確認する時ですら楽しそうだ。
「ロマーノの出社時刻って定時やんな? 俺それよりだいぶと早いねんけど」
「ああ、携帯で合わせるから」
「起こしたらごめんな」
「遅刻するよりましだろ」
「ありがとう」
「べ、別に礼言うほどのことじゃないだろ」
 ロマーノは仰向けの状態からスペインに背を向けて顔の半ばまで布団に潜り込んだ。
「ほな、電気消すな。おやすみロマーノ」
「……おやすみ」