【ロマーノとちっちゃいスペイン】

 スペインの運動神経ならば飛び降りたところで怪我などしなかっただろうが、喫茶店の背の高いスツールはロマーノの思惑通りの効果を発揮してくれた。話を終えて戻ってきたロマーノは、スペインがうろつかずに留まっていてくれたことに胸を撫で下ろす。たとえ記憶はそのままだとしても、あの姿で歩き回るのは勘弁して欲しい。
 席を外す間の相手にと置いたブラッドオレンジの深い赤色はストローでいたずらにかき回されるだけで、ちっとも減っていなかった。元が甘党だし子供の舌には酸っぱかったのかもしれない。

「ロマーノ」
 夕日に染まった帰り道。声変わり前の透り切った声に名前を呼ばる。振り向いて、少し目線を下げると、くるりとした新緑色の瞳が自分を見上げていた。何もかもが今日初めての感覚だったが、新鮮味よりも先に胸に細い糸が絡みつくような痛みが走った。
「俺が遠征してるとき寂しくなかった?」
「はっ、掃除しろって言うやつが居なくてせいせいしたね」
「そっかあ……俺、さっきのちょっとの間やったけど寂しかったな」
 痛みを振り払いたくて叩いた憎まれ口に返ってきたのは、常のスペインにはありえない躊躇いがちな告白。
「足届かんからロマーノのとこ行かれへんし、それに飛び降りてロマーノのとこ行ってもロマーノは仕事の話に行ってるから困らせてまうやろ? 夕飯までには戻るって分かってたけど、待ってるって長いねんな」
 スペインは距離を詰めようとせず、長く伸びたロマーノの影に微かに触れる位置に留まった。

 一度人の温もりを知ってしまうと冷たいシーツは怖くて、一度帰ってくる足音を聞く嬉しさを知ってしまうと耳がそれを求めてしまって、二人でいる楽しさを知ってしまうと一人の部屋は恐ろしく広かった。机と椅子とそれから花瓶と本と、後は何だったか。持ち込めるだけの物を持ち込んで築いたバリケードは、帰ってきたスペインには怒られたけれど、無力な自分にできる唯一の部屋を狭くする方法だった。

 押し寄せた感傷の波を、ロマーノは足元の小石を蹴飛ばしてやり過ごした。転がる石にスペインが気を取られた一瞬に滲みかけた目元を手の甲で払い、小さな体を影の中にすっぽり収めてしまう。
「手、繋いで帰るか」
 返事は聞かずに手をとる。寂しさを連ね得られた共感を慰めにするよりも、いつもより少し高い体温に添うてやることが、今は一番必要なことなのだ。
 握り返す力を感じながら、家路を辿った。

【ロマーノ×スペイン(リバ気味)】

「へその形きれいやんな」
 ソファーの背側から身を乗り出して、肘掛に頬杖をついてテレビを見ているロマーノに話しかけると、ロマーノはシャツの裾に手をやって腹が出ていないことを確かめるとまた画面に意識を戻した。少しくらいこっちを見てくれてもいいじゃないかとくるんと跳ねた毛を摘まむと赤みがさした顔で睨まれた。怒鳴りたいのを耐えているのか、唇が震えている。いつも奇妙に跳ねているそれが何なのかも、触れるとすぐに顔を赤くして怒る理由も教えてくれたことはない。
「何だよ突然」
「さっき電球換えてた時にお腹出てたから、それで」
 椅子の上に立って両腕を頭上に掲げたロマーノは電球に気を取られていて腹が出ていることなど気にも留めていなかった。鍛えてはいないのだろうが無駄な肉のない腹や、シャツに隠された胸部が呼吸に微かに動く様、ぴんと伸びた喉首とそこから辿った先で薄く開かれた口元も、全てが眼前で無防備に晒されていた。あの時に何もしなかった自分が臆病なのか理性的なのかは判断に迷うところだ。
「見てたんならお前がやれよ」
 ロマーノの家の電球を変えなければならない理由が分からないが、彼の舌打ちの説得力は長い年月がなせる業だろうか。不動の事実であるはずの自分が宗主国であったという記憶の方が怪しく思えてくるから不思議だ。
「入れるの下手なロマーノがかわいかってんもん」
 腕がだるくなったのかだらりと腕を下ろし首をひねりながら入れるべき場所を見上げるロマーノを思い出しながら、くるくると髪を指に巻きつけていると、ぷつり、という音が聞こえた。それがテレビが消された音だと気付いたのと、ロマーノに腕を掴まれ無理やりにソファーの背もたれを乗り越えさせられたのは同時だった。受身を取ろうにもいかんせん狭く、体勢を立て直して状況を把握したときには既にロマーノに組み伏せられていた。
「今日はえらい積極的やね」
 冗談めかして言ってはみるが、ロマーノの気持ちはテレビのスイッチと一緒に切り替わってしまっているらしい。自分が上になるならいい。でもこの展開は確実に違う方だ。
「ちゃんと一回で入れてやるから心配するな」
 癖のついてしまった髪を後ろに撫で付けるロマーノは珍しく笑顔だった。

【スペインと病んでるロマーノ】

「俺のこと好きだよな?」
 ロマーノは淹れたばかりのコーヒーを排水溝に飲ませながら、振り向きもせずに問う。
 部屋に漂う芳香も薄いカーテンを透かす陽光も休日の午後のそれだ。
「何回聞かれても俺がロマーノのこと好きやて答えは変わらんで」
 スペインはいつロマーノが振り返ってもいいように、その背から目を逸らさずに答えた。
「へぇ……じゃあもちろん俺の『お願い』は聞いてくれるよな?」
「今までずっと叶えてきたやん。これからだって」
「は? んなもん忘れたに決まってるだろ」
 流しのタイルにカップが叩きつけられる鋭い音。
 思わず身をすくませたスペインは、一瞬、ロマーノから目を離した。
「お願い、聞いてくれるよな?」
 振り返ったロマーノは見惚れるほど美しい笑みを唇に刷いた。
 スペインが肯んずるのを見て、ゆっくりとした足取りでテーブルに戻ってくる。
「信じられないんだ」
 微動だにしないスペインの首に腕を回す。
 呟く声は弱々しく、とてもさっきカップを割った人間だとは思えない。
 スペインはロマーノの背に掌を当てて、体温を分け与えるようにさすった。
「大丈夫、俺はずっとロマーノのこと好きやから」
「ほんとに?」
 首を傾げる仕草はただ幼い。
「うん、約束する」
「じゃあ」
 手を取られ、その上にまだ温かさの残るカップの破片を乗せられる。
「お前の体のどこでもいいから切れ。その傷が残ってる間は信じててやるよ」