「タイピンくらい付けてはどうですか」
オーストリアは、会議室に飛び込んできたスペインのネクタイの下端が、無造作にシャツの胸ポケットに押し込まれているのを見咎めた。スペインは日が落ちてからの防寒着という役割しか与えられない哀れな上着を椅子の背にかけながら笑う。
「どっかやってしもてん」
「一つしか持っていないわけではないでしょう?」
「あれが気に入ってたからなあ。なくても困らんし走るのに邪魔やっただけやから」
スペインはポケットからネクタイを抜いて胸の前で軽く払った。
「スペインこのやろー!」
反射的に身構えたスペインは、投擲された物の小ささに慌ててロマーノを見た。手榴弾を銜えてはいなかった。当り前か。足元を見るとタイバーが転がっていた。
「これどこにあったん?」
「俺のベッドん中。おかげで痛かったぞちくしょう」
「あちゃー、ごめんなあ」
「金にならないもん落として行くなよな」
「でもこれロマーノがくれてんで?」
「……覚えてんなら忘れんなよ」
「ちゃんと外して置こうと思ったのにロマーノが急かしたからやん」
ロマーノが表情を緩めたのは一瞬で、すぐまた眉間に溝を掘った。
「下さえ脱げばできるだろうが」
「そんなん言うけど俺だけ脱がんとやったら怒ったやろ」
「あれは外の便所で」
「あー!!」
徐々にヒートアップしてくるやり取りを遮って、ヴェネチアーノの声が会議室に響いた。集まった耳目にたじろいだまま何も言わない弟に、ロマーノは訝しげな顔をした。
「おい」
「ああああのね、俺、えっと」
「イタリア君、忘れ物ですか?」
涙さえ浮かべていたヴェネチアーノは助け船を出した日本に神を見たような顔をした。
「う、うん、そう! えーっと、前に借りたマンガなんだけど」
「それでしたら文庫版を持っていますので急がなくても大丈夫です」
「にほんー、俺も何か貸して? できたらアニメが」
「それでは会議を始める!」
スペインが身を乗り出したところで、ドイツが会議の開始を告げた。
「スペイン!」
「待ってなーまだ仕事中やねん」
慌ただしく駆け込んできたロマーノを振り返りもせずにスペインは言った。
「そこでじっとしてろよ!」
「動きたくても動かれへんわ。明日の朝イチで持ってこいとかありえん」
机にかじりつき頭をボリボリと掻きながら、叫ぶように話しかけるロマーノに生返事のような調子で返すと、ロマーノは安全点検のように「よし!」と言うと駆けていった。
ロマーノの足音は遠くなりつつも家の中で聞こえている。気配どころか家を破壊しているのではないかと疑いたくなる音と衝撃も感じられる。一人立ちしてからずいぶん経つのにまた掃除の仕方を教えなければならないのかとスペインは考えて、考えた通りに書いてしまっていた紙を丸めて投げ捨てた。
前触れもなく電気が消えた。文字もペン先も見えない。ブレーカーが落ちたのだろうか。カーテンが閉まっているせいで真っ暗闇だ。
椅子を引いたスペインは、物音がぴたりと止んでいることに気付いた。
「ロマーノ……ロマーノ!」
想像してしまった階段下で変な風に捻じれているロマーノを振り切って叫んだ。
ロマーノからの返事はない。暗い部屋がぼうと明るくなった。音を切っていた携帯電話のサブディスプレイが光っていた。習慣的に手を伸ばしたとき、部屋の戸口でゴツンと音がした。
「どうしたん? 大丈夫なん?」
座ったまま体をひねり、真っ暗な廊下に呼びかける。その間に携帯電話の光は頼りない点滅に変わった。ほんの少しだけ闇に慣れた目が近づいてくる人影を捉える。
「ロマーノ?」
返事の代わりか、覆いかぶさるように抱きしめられた。ロマーノのにおい。なんとなく抱き返すと、握っていた携帯電話を取り上げられた。
「ロマー…」
強められた力にスペインは名前を呼ぶのを諦めた。密着した胸が呼吸に動くのを感じる。ロマーノが、すっと息を吸った。
「誕生日おめでとう」
「え?」
「二月十二日だろ」
やっと口を開いたロマーノは携帯電話を開いてメインディスプレイを見せた。スペインは暗闇に慣れかけていた目には眩しすぎる光に目を細めた。メールと電話の着信の通知が点滅する中、デジタル時計の表示が0時0分を示しているのを確認した。
「……それだけ?」
「俺んちビンボーなんだよ」
「ちゃうねん。それ言いにきたん?」
「悪いかよ」
スペインの返答を遮って携帯電話がまた光り出した。
「出ろよ。電話だろ」
ロマーノは明滅する光をスペインの手に押し付ける。受け取ったスペインは表示された名前をしばらく見つめて、ぱたんと閉じた。数秒後、力尽きるように光は消えた。
「さっきバタバタしてたん何で?」
「言っとくけど電気はわざとじゃねーぞ。雨戸閉めたりしてたらうっかり落としちまったんだ」
「嵐でも来るん?」
「お前知り合い多いだろ。近所だと、フランスとかオーストリアとか」
「オーストリアはともかくフランスはよぉいきなり来るなあ。あいつらがどうかしたん?」
「てめぇ! いい加減分かれよ!」
ロマーノはスペインの胸倉を掴んだ。
「今年こそは一番に『おめでとう』って言おうと思ってたんだよ! でもお前のスケジュールなんか分かんねーし、直前で仕事入って日付変わるギリギリんなったし!」
ノンブレスで一気に言うと、ロマーノはスペインを放して両手をだらんと下ろした。
「……なんでいっつも俺ばっかり必死なんだよ」
ロマーノの声は掠れている。カーテンから漏れる街灯の明かりで部屋の中の輪郭が分かるようになっているとはいえ、表情までは分からない。スペインは手を伸ばしてロマーノの表情を確かめるように頬や口許を指で辿った。
「俺も必死やで。今からロマーノのご機嫌取らなあかんもん」
「その余裕が腹立つんだよ」
「ごめんなあ」
「欲しいのはそっちじゃない」
「……ありがとう」
こつりと額を当てて囁くと、ロマーノが笑った気がした。
「迎えにきたで〜!」
スペインが両手を広げて待っているにもかかわらず、ロマーノは歩みを早める気配はない。しかしスペインはロマーノの目がしっかりと自分の方を見ているだけで満足だった。
「今日は楽しかったか?」
足元に到着した小さな体を抱き上げたスペインはふと、常と違う感触に気付いた。
「……パンツは?」
顔を寄せて小声で聞くと、ロマーノはきょろきょろ周りを見てから、スペインの耳に口を寄せた。スペインの耳と変わらない大きさの手で口元を囲い、ぽしょりと言う。
「わすれた」
「え」
ぎょっとして見ると、耳を引っ張られた。
「プールだった」
耳元で小声でぽそぽそとしゃべられて少しくすぐったい。
スペインはちょっと頭を捻って「朝の授業に備えて制服の下に水着を着ていったら、パンツを持って行くのを忘れていた」という解釈に行き当たった。ロマーノが居心地悪げにしている理由が、恥ずかしいからなのか、直接当たって気持ち悪いからなのかは判らないが、それを詮索するよりもまず褒めることにした。
「えらいなー、お着替えの時間、短くしよと思ってんな」
てきぱきと物事をこなすのが苦手ななりに、周りに合わせようと頑張ったのだろう。頭を撫でようかと、スペインは柔らかい尻を支えた手を迷わせた。
ロマーノははにかみながら、スペインの顔面を平手でばちんと叩いた。