【西ロマ:手懐ける】

 かちゃりとドアが開いて、ドアノブと同じくらいの高さのところに、ひよりと頭上に跳ねた毛が印象的な茶色い頭が覗いた。
「お、」
「うわああフランス!」
「ロマーノ?」
 ドアに背を向けて座っていたスペインが振り向くより早く、ロマーノは踵を返した。ロマーノの反応は、客人がいたから驚いたというものではない。非常な驚きを引き起こさせた張本人であるフランスは、そのあんまりな叫び声に思わず笑ってしまった。
「悪いなあ、フランス」
「んーん、いいよいいよ」
 顔を見て逃げ出されるのも、逆に攻撃的に向かってくるのも慣れた。
「ロマーノのあの表情は俺だけやと見られんからなあ」
「それが目当てかよ」

「挨拶もせんと逃げ出したらあかんやんか」
 スペインはロマーノを追って部屋を出て、すぐに戻ってきた。小脇にはふてくされた顔のロマーノを抱えている。再びフランスの前に座ると、当然のようにロマーノを膝に乗せた。
「うるせーぞバカスペイン」
「そんなん言うて、おやつねだりに来たくせに」
 むっとしたロマーノの口元に、スペインはテーブルの上のマドレーヌを摘んで差し出した。
 ロマーノは瞬き一回分の時間を迷ってから手を伸ばした。摘みながら話すつもりで小ぶりのものを焼いてきたのだが、ロマーノの手の中にあると大きく見えた。
「フランスの作るお菓子はほんまおいしいやんなあ」
 マドレーヌを頬張ったロマーノはこっくりしたが、フランス本人がいることを思い出すと慌てて首を振った。さらに否定の言葉を重ねようとしたものの、口いっぱいに入っているせいで形を成さない。その代わり、スペインとフランスの頬をゆるませた。

 *

「……来るなら言えよな」
 ノックもせずにドアを開けたロマーノは顔を歪めた。
「忘れとってんよ」
「ロマーノはともかく、スペインお前ひどいぞ」
「そんな、フランスが来てくれるんは歓迎やで! 準備もいらんしな」
「茶菓子持参だからな」
 フランスは不平そうに言ってみるだけで、スペインの調子の良さは嫌いではなかった。インスタントのコーヒーを飲みながら目線を上げると、スペインが隣に立ったロマーノにマドレーヌを差し出すという、いつかどこかで見た光景が繰り広げられていた。
 ロマーノは体を傾けて、スペインの手から直接菓子を口にした。

「……よく手懐けたよな」
 二人きりに戻った部屋でフランスは呟いた。
「ん、聞こえんかった、もっかい言うて」
「愛しの子分のご用はなんでした?」
 独り言を拾われたフランスは、慌てることなく別のことを言った。
「ご友人はお早めにお引き取りください……というのは俺の言葉。悪いなあ」
 手綱を握られているのはスペインの方だったか。
 かつての支配国にすっかり骨抜きにされている男は、指に残る唇の感触でも思い出しているのか、幸福に崩れきった顔で笑った。

【西+ロマ:「国」ではないヒトについて】

 ロマーノの部屋のドアを開けると、室内にはもの悲しい音楽が流れていた。確か彼の国で作られた映画の主題曲だ。公開はすっかりカラー映画が主流になった頃だったか。映画の内容を知らなければ哀切の情など湧かず、ただのクラシック音楽にしか聞こえないだろう。友人と違って音楽への造詣は深くない。
「いつまで突っ立ってるんだよ。入るなら入れ」
 ロマーノは造作なくラジオを消した。
「ええの?」
「何がだ?」
 何をするでもなく机に向かい頬杖を突いていたから、聴き入っているのだと思っていた。
「聴いてたんと違うん?」
 ロマーノは首を振った。
「たまたまだ」
 机の上に置かれているのは旧いタイプの受信機だ。それこそ映画の舞台になった時代に普及していたような、現在ではマニアか老人くらいしか持っていなさそうなものだ。
「向こうの通りの角に住んでた爺さんがくれたんだ。正確には爺さんの娘が」
 視線に気付いてロマーノは答える。その先は聞かなくてもよかった。
 俯いたロマーノの眼瞼が微かに震えたその一瞬に浮かんだ表情は、送ることに飽いた老人のそれにとてもよく似ていた。忘れることができるから、人は生きていけると言う。忘れなくとも生きていけることの幸不幸は、一度忘れてみないことには判りそうにない。

【西+ロマ:スペイン喫茶】

 土曜の晩特有の浮き足立った町の空気とも、この店は無縁だった。表通りから一本隔てているにしても静かすぎる。カウベルに似た音は、まだ空気を震わせている。
「いつ来ても全席空席じゃねーか。商売する気あんのか?」
「今日はロマーノ来てくれてるやん」
 意味をなさないメニューをスペインに返す。載っているどれを頼んでも「それあらへんわー。今度いつ来るか教えてくれたら材料買うてきとく」との返事が返ってくる。やる気がなさ過ぎて、リピーター獲得に貪欲だと言った方がまだ聞こえが良いくらいだ。
「……インスタントのコーヒーでいい」
「待たんでもすぐできるで」
 スペインが自信を持って告げ、奥にコーヒーを取りに行った。
 ロマーノは見るとはなしに店内を見た。客が入っているところは一度も見たことがないのに、床は磨り減っていた。そういえば、初めて来た時から、店の主人以外の構成要素は驚くほど馴染んでいた。まるで何十年も前からそこにあったみたいに。
「入ったで」
「なあ、この店の前のオーナーは?」
「ロマーノ知っとるん?」
「知らないから聞いてるんだ」
 どうやら、予想通り前任がいるらしい。
「ええ人やったで。飲み屋やないって言いながら、マスターが飲んべえやさかい酒もつまみもよお揃えとってな。この町も今ほど栄えてなかったのに、夕飯時に来たら労働帰りの人がぎょーさんおって、満席やからその辺に立ってろて言われたわ」
「嫌われてたんじゃねーの」
「ははは、気味悪がられてたかもな。突っ立ってるなら手伝えて言われて給仕だの何だのさせられたけど、頭ぐしゃぐしゃに撫でられて小遣い貰うんも悪ないて思た」
 ちゃっかり自分の分も淹れてきていたスペインは、コーヒーを一口飲んだ。
「そんなに経ってへんよ、たぶん。役所にでも行かな分からんけど」
「別にそこまで詳しくなりたくねえ」
「あーあ、俺も一回くらい満席やて言うてみたいなあ」
 収支のどちらも動きがないから、経営費用は娯楽費から出されているんだろう。
「マスター」
「…………あ、俺か。どしたん?」
「ほんと向いてねーな。スペイン、こっち来て客増やすの手伝え」