ロマーノを抱き上げたときにふわりと漂う匂い。膝に乗ってうつらうつらしているロマーノの首が胸元にこてんと倒れたときに鼻を掠める、口の中が甘くなるような匂い。香りと言うには淡すぎるそれらを、香水瓶に詰められたらどんなに素敵だろうか。
手の中の三角巾を、正確にはその上にぶちまけた精液を見たスペインは顔を顰めた。布の端にささやかに施された小花の刺繍は、とろりとかかった白濁に色を吸われている。散々においを嗅ぎ口に含んだ三角巾だが、もう顔を近付ける気にはならない。
「なあロマーノ、その刺繍どうしたん?」
きゅ、と三角巾を結んだロマーノは、エプロンのリボンもきれいに結べていて、掃除する態勢は見た目だけなら十分だ。スペインは休憩の時間よりも前になくなるだろうおやつの包みを渡す。
「教えてやらない」
そう言ったときの顔で、女の子がやったのだと分かった。誰かの練習か手慰みかに捕まったのだろう図案と合わせて、疑いようがない。
「色男やなあ。その調子でうちの掃除も頑張ってなー」
返事もせずに背を向けたロマーノは、きっとエプロンを敷き布に、優しい色の小花が咲いた野原でおやつを食べるのだろう。それから三角巾を日よけ代わりに顔に載せて眠るのだ。
スペインはにまにまと笑いながら、遠ざかっていくリボンを目で追った。
「このクソ野郎! 約束すっぽかしてねんねとはいい度胸じゃねーか!」
もぞもぞと布団の中にもぐって行ったスペインを見て、ドアを開けた時点で既に頂点に達していたロマーノの怒りは、成層圏でひんやりし始めた。唇だけで悪態をついて、顔の両脇の布団を押さえる。しかし、スペインからは弱々しいうめき声と抵抗しか返ってこない。
ぺろりと引きはがしてのぞき込んだ中では、息を詰めていたはずなのに顔色の悪いスペインが、儚げなほほえみを浮かべていた。
スペインの目には、仕事続きでろくに掃除もできず埃っぽくなった自室で、カーテンの隙間から差し込む光に陰影を濃く映したロマーノが、苦悩する者のために舞い降りた天使のように見えていた。怒りから驚愕に、そして哀しみへと色を変える瞳に名残惜しさを覚えつつ、目を閉じた。
「ごめんなあ、ロマーノ。親分もう……」
「スペイン? おい、スペイン……っ」
ロマーノは怒っていたことも忘れてスペインの手を握った。
「……もう、お酒はやめるわ」
「それ前も聞いたぞ」
会おうと言ったのはスペインの方だったのに、とんだ肩すかしを食らったものだ。
ロマーノはカップの中でりんご酢とはちみつを混ぜて湯を注いだ。甘みを足すべきかと考えて、念のために砂糖壺を手に取ってトレーに載せた。
カップを手渡すと、スペインは力なげながらも嬉しそうな顔をした。
「打ち上げか?」
「んー」
「……忙しいなら先に言えよな」
「せやからロマーノに会いたかったんやんか」
「呼べよ」
「くたくたのとこなんか見せたくないわ」
「そんなもん」
見飽きるほど見てきた。
ヤケ酒で二日酔いの方が情けない。
もう子分じゃないんだから、もっと頼れ。
――巡った言葉は、スペインに手を取られたことで出口をなくした。
スペインはロマーノの手を大きさを比べるように触っていたかと思うと、頬をすり寄せた。こうしていてくれないか、と問うように小首を傾げて、それから手を離した。完全に手が離れてもロマーノの手のひらが残っていることを確かめると、再びカップに口を付けた。
「飲みにくい」
「諦めろ」
「仕方ないな」
ロマーノが手を離すより早く、スペインはカップをサイドテーブルに置いた。
「……なぁーに『どうや、惚れ直すやろ?』って顔してやがんだちくしょーめ!」
「大声出したらあかんてぇっ。あと今のでええからもう一回スペイン語しゃべってな。あかん、それ以上引っ張ったら親分ほっぺたちぎれてまうって」
ロマーノに内から外から頭を揺さぶられながらも、スペインはしっかり希望をねじ込んだ。
リクエストを聞いたロマーノは、少しくらいちぎり取ってしまっても構わないつもりで、つねる動作にねじる動作を加味した。
「今のコだれ?」
「浮気とちゃうよ」
スペインの返答はほぼ反射だった。カウンターから戻ってきたばかりのロマーノは、グラスを手にしたまま、座ろうとはせずにもう一度聞いた。その目はスペインを見ていない。
「だから誰だよ」
「……前の上司のお孫さんの友達」
ロマーノのグラスの中身を推測しながら、スペインは見送ったばかりのロングヘアの正体を答えた。潔白の証明の補強として、上司の孫の誕生日パーティーで会ったきりだということを付け加える。
「よし、紹介しろ」
「えっ」
「浮気じゃねーんだろ? だったらいいじゃねーか」
「まあー……ええよ。じゃあロマーノも誰か紹介してぇな」
スペインは生じた濁りを持て余しつつも、すっかり女の子と遊ぶ気になっているロマーノに調子を合わせた。携帯電話を取り出したロマーノは、何回か操作して、悩むような顔を見せてから口を開いた。
「この間ショーで知り合った子」
「モデル? ええなあ。でも俺もうちょいムッチリした娘がええねんけど」
「心配すんな。雑誌社のほうだよ」
スペインはロマーノの顔を伺うように見た。意図を察したロマーノが鼻で笑う。
「さっきの彼女を紹介して貰う見返りだぞ」
スペインが腰を上げたとき、入れ替わるようにロマーノはグラスを置いた。
「忘れてた」
指輪を外して、スペインに握らせる。
「取りに行くまで預かってろ」
スペインは握らされた指輪を見た。ファッション性どころか装飾性もない、つるりとした表面を滑った目は、内側の刻字にひっかかって止まる。顔を上げると、ロマーノは跡を気にするように指を撫でていた。
「じゃあ、俺のんよろしく。あげたり売ったりしたらあかんで」
関節に引っかかって外しにくいのに、結局は外れる指輪を外して、ロマーノに渡す。
「こんなの誰がいるんだよ」
皮肉めいた笑いを浮かべたロマーノは、手をポケットに突っ込んだ。
「お前こそなくすなよ」