ロマーノの姿を公の場で目にすることは少ない。「国」の友人知人に会う一番確実な機会である会議は、多くの場合、弟のヴェネチアーノが単独で出席していた。取り決めがあってそうなっているのか、それとも単にロマーノが出たくないからなのかは、他国であるスペインが与り知るところではない。
「元気にしとった?」
往訪を予告してあったにも拘わらず、アパートのドアから顔をのぞかせたロマーノは、気持ちがよいほど呆気にとられてスペインの顔に見入っていた。各国が集う会議における中休みは、スペイン自国のそれよりも短く、さらには他国との兼ね合いもある。まさか本当に抜け出してくると思っていなかったのだろう。
「見つかったら面倒になるぞ」
ロマーノの目は、無造作に放り出されたスペインの鞄を見ている。
「逢瀬がバレたらスキャンダル、か。スターにでもなった気分や」
「俺を巻き込むなよ」
スペインの上着をかけたハンガーを振るロマーノに向かって、スペインは肩をすくめた。パパラッチと噂話がどこから沸いて出るかなんて、いくら国内の事情に詳しいからといって知ったことではない。
「仕事は干されて、輝かしい来歴にオチがついて、離婚調停で財産も失って……残るのはロマーノとのツーショットだけかぁ」
宙に描いた空想世界を感慨深げに眺めると、スペインは目を閉じた。
「案外悪ないかもなあ」
「……起きてるときまで寝ぼてんじゃねー」
ロマーノはぺしりとスペインの額を叩いた。
「さっさと食って戻れよ。ヴェネチアーノから『スペイン兄ちゃん来てないー?』って電話かかってきたらシャレにならねえ」
ロマーノはスペインの前にサラダプレートとグラスとワインボトルをどんと置いた。訪問を驚いていたくせに、準備はちゃんとしている。スペインが何か言う前に、ロマーノは後ろを向いてしまった。
行きつけのバルの親父が「俺の写真載っとるで」と押しつけてきた雑誌は、飯屋のガイド本かと思いきや釣りの本で、端の折られたページをめくると、遠近感が狂ったようなデカさのイカを持った親父が誇らしげに笑っていた。
掲載されている写真の潮焼けした顔は、バルの店主に限らず、誰も彼もが楽しそうにしている。
たまにはこんなグラビアも悪くない。
そんな感想を抱きながら、自分では絶対に買わない雑誌を、ベッドに寝そべって読んでいたことは覚えている。
いつの間にか、ロマーノが尻を枕にして眠っていた。俯せで寝ているから顔は見えないが、間違いなくロマーノだ。そう言えば声を掛けられたような気もするが、ロマーノに名前を呼ばれたことが多すぎて、記憶の中の声を再生しているだけのような気もする。
「お姉ちゃんのチチやないでー」
小さな声で呼びかけてみるが、やはり答えはない。
「……男の尻の何がええねん」
ロマーノが起きていればそのままスペインに跳ね返される呟きは、静かな寝息と一緒に溶け消えた。
*
ロマーノの寝起きは悪くない。ほんの少しの間寝ぼけた顔を見せるが、すぐに平常に戻る。目覚めてから十分も待たずに食事を取れることは、朝起きてから一時間は夢見心地で、朝食はコーヒーやチョコラータのみで済ませることもあるスペインからすれば、驚異的なことだった。
そんなロマーノにしては珍しいことに、すっきりしない顔で、不意に落ちてきたゴミを探すように顔を払っている。
「すまん」
ロマーノは唇を尖らせてしかめ面をしていたが、首を振った。
音ばかり立派で臭いはそれほどでもなかったことが幸いしたらしい。許しを得たスペインは、臭いを逃がしがてら寝返りを打って、ずっと同じ姿勢だったせいでしびれている体を軽く伸ばした。
なぜだか尻がひんやりした。
「……わざとじゃねーぞ」
パンツまで染みていることは黙っていよう。そう思った。
広場を包む熱気が目に見えるようだった。民族衣装の赤が、花が咲いたように、時には炎のように踊る。観光客同士で踊っているのは珍しいことではなかったが、せっかくなら村の娘と踊りたいと目を走らせた俺の手を、スペインがぐいと引き寄せる。
こういう
「朝ご飯どうする?」
巧みにステップを踏みながらスペインはどうでもいいことを聞いた。初めて踊ると言っていたくせに、それを感じさせないのは、この村も「スペイン」だからなんだろう。
「土地のもん食べる?」
まだ夜も食べていないのにと思いながら、道すがらに見た、ヤギや鶏の姿を思い出す。食卓と産地が限りなく近いここでは、土地に根ざした生が今でも営まれている。周りで踊っている人々が、踏み締めた大地が、堪らなく愛おしく感じる。
「食べる!」
「そうか、ほな伝えとくわ」
音楽にかき消されないように声を張り上げただけでは、唐突に胸に湧き起こった感情を抑えられなかった。ぶつけるようにしてスペインにキスをする。乾いた唇の感触は、一瞬だったというのに焼き付けられたように唇に残った。
「好きだ」
口にした言葉が、スペインを指すのか、この村を指すのか、俺にも分からない。きっとスペインだって分かっていないだろうに、ニカッと笑って叫ぶように言った。
「楽しいな、最高や!」