美味い飯で腹は満ちて、酒で体も温まった。気分が良かった。腕の中に閉じこめたロマーノの口を吸う。想像したより乾いていたが、柔らかく温かだ。
唇を離した。ベッドに横たわったロマーノは、信じられないものを見たように目を見開いていた。
水のままのシャワーで文字通り「頭を冷やして」いるスペインは、頭の中に展開させたリストの解析が終わるのを待つまでもなく、自分の勘違いを悟った。冷静になってみると、なぜロマーノが自分に好意を寄せていると思い込んでしまったのか、不思議で仕方がない。あまつさえ誘いをかけているように見えたなんて、どうかしていたとしか言いようがなかった。
蛇口を閉めると、静けさが耳についた。
寝室に戻ると、ロマーノはまだスペインのベッドにいた。逃げ帰るのも面倒なのか、それとももう手は出さないだろうと踏んでのことなのか。向けられた背中から彼の心情は読みとれないが、何にせよ、今日このまま一緒に寝るなんてできるわけがなかった。
「俺、別んとこで寝るから」
寝ていないくせに返事はないが、贅沢は言えない。
部屋を出て、後ろ手にドアを閉めようという時になって、ロマーノに声をかけられた。
「……やってもいいぞ」
思わず振り返る。両目の幅ほどの隙間から見えた部屋では、ロマーノは顔を半分枕に埋めていた。
「そんな風にするもんとちゃうやろ」
冗談だと笑ってしまえる理性はかろうじて残っていた。
「マスターおかわり」
こういう時は自国の夜の短さがありがたい。しかし、いつもなら否応なしに溶け込めるバルの空気が、グラスの向こう側を見ているように遠く思えた。真新しい氷が溶け出す前に口を付けると、濃いままのアルコールが喉を焼いた。
「今日はえらい荒れてんなぁ」
「ただの欲求不満やから気にせんといたって」
「はっは、若いってええな」
ぶーたれたままで言うと、店主は別の客の注文を聞きに行った。
生きた年数なら店主より相当年寄りだったが、生きた年数分熟した精神を持っているかと言うとそうでもない。よくできた上司の言葉や、市場で耳に挟む知恵に啓かれることもしばしばだ。
若気の過ち。――それで済ませられるだろうか。ロマーノはもちろん、自分も。子を成す能力があるわけでもあるまいに、どうしてこんな欲があるのかと、スペインは頭を抱えた。
時を同じくして、ロマーノは枕をかき抱いてベッドに突っ伏していた。
なぜバレたのか。頭の中はその疑問でいっぱいだった。
食後にテレビを見ていた時のことだった。
「ちょっと手ぇ出せ」
「ん、何するん?」
「いいから」
「親分と手ぇ繋ぎたくなった……ん」
手のひらを合わせて、ロマーノはニヤリと笑った。
「親分なら、俺の成長、喜んでくれるよな?」
「うっ」
ぴったりと重なった手の大きさは認めたくないものだったが、先に言われてしまってはぐうの音も出ない。一番懐いてくれたくせに、一度も親分と呼んでくれなかった元子分は、上目遣いのくせにちっとも媚びがない、からかいを含んだ目で覗き込んでくる。
「……ああもう!」
やけになってロマーノを抱き上げた。持ち上げるときの負担は軽々という言葉とはほど遠かったが、素知らぬ顔を通して膝の上に座らせた。自分の腿の厚みだけ、自分より高い位置にある頭を撫で回す。
「大きなったな! 親分めぇぇぇっちゃ嬉しいで!」
「やめろこのやろっ、離せっ」
抵抗したロマーノの腹に腕を回して固定する。気分はベビーチェア。
「なんや寂しいわぁ……」
「俺が知るかよ」
「今日はこのままテレビ見たんねん」
「見えねーだろ」
「ええねん」
ロマーノがあからさまに嫌そうなうなり声を出したが、聞こえないふりをして、見えないテレビの音に耳を傾けた。
――危険な仕事だ。
残念。俺はそんなこと言われたら怖じ気づく臆病者なんで。
――お前にしか頼めない。
有能な面子は出払ってるからなぁ。それに生憎と、俺には命以上に大事にしてるもんなんかないもんでね。プライドじゃ飯は食えねーよ。
それでも、ロマーノはその任務を受けた。
「依頼主は美女なのに」という上司の独り言を聞いたからだ。
(ハメられた!)
細い路地を全速力で駆けながら、ロマーノは上司を呪った。
跳ねた泥水で一張羅が汚れることは気にならない。とにかく早く、できるだけ遠くに逃げることが、何よりも大切だった。
路地を抜けた先の大通りで、降りる客を押しのけるようにしてタクシーに乗り込む。見知らぬ男の舌打ちが聞こえたが、どうせ二度と会うことはない。
「駅まで」
当然稼げる距離ではないが、降りろと言うのなら運転手を降ろしてやろうと、ロマーノは内ポケットの感触を確かめた。しかし運転手は返事をしない代わりに文句も言わず、黙って車を走らせている。懐に手を入れたまま、後ろを振り返ってみたが、追ってきている様子はない。
ロマーノは短く息を吐いて、くたびれ気味のシートに座り直した。
「……おい、道違うだろ」
緊張の糸が緩んだせいで、気づくのが遅れた。最短距離でないのはともかく、回り道と言える度合いも超している。声が聞こえないはずはないのに、注意を払う様子もない運転手にロマーノは苛立った。
「おのぼりの観光客じゃねぇんだ。ぼろうったってそうは行かねーぞ」
「物騒やなぁ」
ロマーノが作った緊迫感を無に帰すような、のんびりした声。しかしロマーノは緊張を解すどころか、石になったように体を硬くした。
「ロマーノの家はこっちやろ?」
撒いてきたはずのスペインが、タクシーのハンドルを握っていた。