隣でシエスタしていたはずのスペインがいないことに気づいたときには、スペインの体温は、最初からいなかったみたいに跡形もなく消えていた。掛け時計を見たが、時間はほとんど変わっていない。探しに出た俺の予想通り、スペインは別室で内職に精を出していた。
午後の光が満ちた部屋の壁には、貰い物だと言っていた一輪挿しがぼんやりとした影を這わせている。部屋に転がる段ボールの中身はスペインの家を飾るための花じゃない。一輪挿しは長いこと壁に掛かっているが、そこに花が生けられているところを、俺は一度も見たことがない。
「スペイン」
「お−、起きてしもたんか」
スペインの視線はくるくると回る軸に注がれていて、あっという間に花が一本できあがる。そして、次の材料に手を伸ばす。その動きは、天井が落ちるか床が抜けるかするまで繰り返されるんじゃないか。
俺は長椅子の背を間に挟んだまま、肩の上を滑らせるようにしてスペインの首に腕を回した。
「……何驚いてんだよ」
やっと俺を見たスペインは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「え、ううん。どしたんロマ、ごきげんやん」
「お前の目は節穴か。俺は今、機嫌が悪い」
「そうなん?」
「そうだぞ」
すごく不機嫌な顔してるだろうが。不思議そうな顔すんじゃねーよ。
納得したのかしてないのか。スペインはそれ以上何も言わずに、俺をぶら下げたまま、また糸を紡ぐように花を造り始めた。無視されてるみたいでカチンときた俺は、長椅子を回ってスペインの隣に座った。腰をずらして、スペインの腕の下をくぐって膝に頭を乗せる。
「働きすぎじゃねーのか」
「そんなことないで」
「夜短いくせに、シエスタまで削ってどうすんだ」
「平気やって。俺元気やもん」
スペインは「何なら試してみる?」と言って、ニヤッと笑った。
「いらねー」
狭い空間で寝返りを打って、スペインの腹と向き合う。
「俺はここで寝る。一人でシコシコ働きやがれ」
「えー」
スペインは完成した花をぽいと箱に投げ入れると、俺の髪に指を入れた。
「俺も寝るから、ベッド行こやぁ」
「断る」
信用できない。ただでさえ、こいつを探したせいで貴重な睡眠時間が減っているのだ。今さら移動するのも面倒で、俺は動きたくないという意思表示でスペインの腰に抱きついた。
「もう大きいのに、甘えん坊さんやなぁ」
「……言ってろ」
俺は絶対に動かねーぞ。心の中で宣言して、俺は目を閉じた。
力が入っていないスペインの腹は、そこそこ柔らかくて、温かい。眠気を呼び戻すには丁度いい具合だ。諦めたらしいスペインが、鼻歌を歌い始める。自分は寝られないくせに、わざわざ他人に、それも疲れてもない俺に快眠を提供しようなんて、こいつはなんてバカなんだろう。
世の中の大抵のことは経験がものを言う。たとえば雨上がりに車道の近くを歩かないとか、鳥で賑わう樹の下は通らないとか。失敗した分だけ人は学習するため、同じ失敗を繰り返すのは、学習できない愚か者だけということになる。
女の子に声をかけてはフラれるロマーノは、同じことを繰り返しているように見えるが、恋に同じものは一つとしてないというのが彼の持論を採用するのなら、常に新しいことに挑戦し、敗れていることになる。つまり彼は愚かではない。愚かなのは、女の子にフラれたロマーノを慰めて、次の恋はきっと実ると励ましているスペインその人だった。
「ほら、鼻かみ。男前が台無しや」
スペインがロマーノを恋うようになったのは最近のことだ。いや、気づいたのが最近だっただけで、恋心を抱いたのはもっと昔かもしれない。スペインとロマーノの間で、いわゆる「百年の恋も冷める」というできごとは今のところ起きていないし、これからもきっと起きないだろう。数百年という時間は、一個人の人となりを知るには十分すぎる。
どんなに手ひどく断られても、ロマーノは決して相手のことを悪く言わない。己が非業を嘆くのみの彼の言葉は、要領を得ない子どもの話によく似ていた。身も世もなく泣くロマーノの背をさすりながら、甘い言葉で誘いをかければ簡単に落とせるかもしれないと思ったことはあれど、スペインがそれを実行したことはなかった。そもそもスペインは、ロマーノを自分の手に落とすこと自体を望んでいなかった。もしロマーノをものにできたら、独占せずにはいられない。浮気者の彼が他者にうつつを抜かすことを、自分はよしとしないだろう。スペインは、女の子が大好きで、声をかけずにはいられないところも含めて、ロマーノが好きだった。
「そろそろお開きにしよか。何飲む?」
「ヘレス」
スペインは一瞬息を詰めた。即答したロマーノの、髪に隠れて見えない顔を見ようとして、すぐ誤りに気づいた。逃げるように、店員の姿を探しに目を店内に走らせた。
「せやな、寝酒に丁度ええなー。俺もそうしよっ」
普段は離れて住んどる恋人がね、俺んちに泊まったときは朝起こしてくれるんですけど、やり方が乱暴なんですよ。腹の上に飛び乗ってくることこそないもんの、頭突きしてきたり、蹴飛ばされたり。いやノロケちゃいますよ。相談やて言いましたやん。でね、その理由がまた可愛いないんです。「飯作れこのやろー」って。仮にも俺らは恋人ですよ? お互いいい大人なんですよ? 飯て! もっと色気があってもええんとちゃうの! ……すまへん。取り乱しました。あいつの動物的なとこは結構可愛くもあるんです。腹減ったとか、眠いとか、したいとか。欲求に忠実な分、与えたらほんまに喜んでくれるんですよ。でも朝ばっかりは勘弁して欲しいなぁと思うんです。せやから俺、「起こすならキスで起こしてくれへん?」と言うたんです。ほら、希望を伝える時は最初は大きく言えって言いますやん。俺としてはキスまでいかんでも優しゅう起こしてくれたらそれでよかったんですけど……そしたらあいつ、分かったって言いよったんです。期待しますやん。期待するに決まってますやんか。楽しみすぎて夜寝られへんのちゃうかと思いました。でもちゃんと夜のうちに寝て、朝まで眠っとったんです。習慣って恐ろしいもんですね。あんだけドキドキしとったのに、朝まで熟睡しとったんです。自慢やないけど一旦寝たら砲弾飛んでても爆睡できますさかい。ええ、ちゃんとキスで起こしてくれました。でもあんなえっろいのんされると思いませんでしたわぁ。おかげで頭が冴えるより先に、別んとこが起きてしまいました。し、仕方ないですやん! あいつの舌使い知らんからそんな顔できるんですよ! ほんま世界三位は伊達やないですねー。なんや悔しいわぁ。前置き長なってしもたんですけど、こっからが本題なんです。あれからね、俺の顔見んとちんこに向かって話すようになったんですけど、どうしたらええでしょうか?