【西ロマ:うさぎ年ネタ】

 パニーニのほうれん草が思ったよりも長かった。
 ずるずると手品のように出てくるほうれん草を、噛み切らずに口の中に順送りに引き込んでいたスペインは、視線を感じて目を上げた。笑いを堪えている風なロマーノは、目を逸らすどころかにんまりと笑った。
うさぎの島イスパニア
 タイミングの悪いことに、たった今ほうれん草が全て口に収まった。一度意識してしまうとなかなか飲み込めない。
 むぐむぐと口を動かしていたスペインがようやく喋れるようになった時には、ロマーノの興味はテーブルに戻っていた。
「懐かしいなぁ。今の、ローマのおっさんによぉ似とった」
「……俺はあんなに爺さんじゃねぇ」
「ちゃうちゃう」
 スペインは自分とロマーノの間にある、イメージの齟齬を是正した。
「俺かてはっきりとは覚えてへんけど、若い頃はほんま男前やってんでー。酒は強いし、喧嘩も強い。もちろん女の子にはモテモテ。めっちゃええ男や」
 思案顔で黙ってしまったロマーノを見て、スペインはほくそ笑んだ。

【西ロマ】

 砂漠を固めたような流しの上を、飲み残しの赤ワインが染みこむことなく通り過ぎてゆく。ぬるんだ液体は鈍色の縁を舐め、暗い穴に吸い込まれる。胃にも排水口にも入れなかった哀れな大量消費用の安ワインの残滓は、身を守るように丸い水滴に変わった。
 全てがスローだ。
 余裕があるのとは違う、怠い時間の流れ方。
 空になったグラスを片手に佇んでいたロマーノの頭に、昼間に立ち寄ったレコード店で流れていた歌が再生された。暗い歌。女の掠れた声を耳の奥で聞いていたはずが、いつの間にか口ずさんでいた。聞き取れたスペイン語を繋ぎ合わせただけの不完全な歌詞と、外に出した途端に不安定になる音調。もっとノリのいい曲を歌おうとしても上手く唇に乗せられない。
 ロマーノは勢いよく蛇口をひねった。ワイングラスとつまみを乗せていた皿に跳ね返り、しぶきが上がる。顔に飛んだ水滴が不快だったが、ひとまず区切りを付けられた気がして、ロマーノは振り返った。そこには正体を無くしたスペインがテーブルに突っ伏している。
 飲もうと誘ったくせに、さっさと一人で酔っぱらってしまうとは。
 酔うに酔えなかったロマーノは、中途半端な良識を背中にぶら下げたまま、乱暴な足取りで冷蔵庫まで行くと、ミネラルウォーターのボトルを取り出した。

「これ飲んだら自分の足でベッドに行け」
 ロマーノに揺り起こされたスペインは、不思議そうな顔で差し出された水の入ったグラスを見た。
「あれ? もうないっけ?」
「片付けた」
「悪いなぁ」
「甘ったれんな」
 食器は水に浸けただけだ。洗おうかとも思ったが、気分じゃない。スペインは不服そうにしたが、その顔も長くはもたず、すぐにとろんとした目になった。

 たとえば、スペインがベッドに行ってから使った皿を全て片付ける。その後で、酔いも手伝って絡んでくるスペインをいなしながら同じベッドで寝る。朝になったら自分が寝た部分のシーツは心持ち整えて、スペインが目覚める前に家を後にする。もちろんちゃんと鍵をかけて。
 そうしたらスペインはどんな反応をするんだろう。慌てて電話をかけてロマーノが来ていたかどうか確かめるのか、それとも夢だったと片付けるのだろうか。夢になるのだとしたら、それは良い夢なのか、悪い夢なのか。
 ロマーノは益のない想像を巡らせながら、冷たいガラスに口付けた。

【西ロマ】

 ぬるい海に四肢を浸しているような心地よい微睡みから抜け出たロマーノは、仰向けで眠っているスペインの身体に乗り上げた。意識が途切れる直前までロマーノを抱いていた腕は、今はだらりと横たえられている。
 スペインの穏やかな寝顔をひとしきり眺めてから、ロマーノはそろりとスペインの両頬に手を触れた。長く、ゆっくりと共に時を重ねてきたせいで、余計に変化していないように思える面差し。笑いもせず怒りもせず、無表情に閉じられた唇の端に、ゆったりと口付ける。
「……」
 顔を上げたロマーノは、いたずらが成功した子供そのものの顔をしていた。高揚感に震える唇を引き結んで真顔を装い、先ほどと同じようにスペインの顔をじっくりと見る。そして、もう一度スペインの頬に手を当てると、癖のある髪の間から覗く滑らかな額に照準を合わせた。

「俺今日休みやのんに……」
「今起きねーと飯の回数が一回減っちまうだろうが」
 ロマーノは顎をしゃくって時計を指した。新しもの好きのスペインはしばしば新式の時計を買ってくるが、繊細な機械はスペインによる大雑把な扱いには耐えられず、結局昔ながらのけたたましい鐘が鳴るアナログ時計に取って代わられることになる。単純構造の時計ですら機能停止に追い込まれることは日常茶飯事で、この家において一度も壊れたことがない時計は、ロマーノの腹時計くらいなものだ。
 スペインの寝ぼけ眼は時計の針など見えていなかったが、ロマーノの様子から、現在時刻が次の食事も美味しく食べるためのギリギリのラインだと悟ったらしい。しぶしぶベッドから背中を離す。
「おはよー」
 スペインは、二度寝したらすかさず頭突きを飛ばすだろうことが容易に想像できる面構えのロマーノを抱きしめて、あくびと溜め息を一緒に出したような声で挨拶する。「おはよ」と聞こえないくらいの声で短く返したロマーノは、もたれかかってくるスペインを押し返して、ベッドから降りる。
「早く来いよ」
「おー」
 ロマーノの知らないスペインの顔というものは存外多い。ロマーノ、スペインそれぞれの歴史が交わるようになる前ではなく、共に暮らすようになってからのことで、だ。ロマーノが幼くて気づけなかったこともあったし、不都合であるがゆえに隠されたこともあった。知ったのは後になってからで、過ぎたことを言ってもどうしようもないし、そもそも不満に思うこと自体ばかなことだから、気づいてからもロマーノが話題に出したことはない。
 スペインも知らないスペインの顔を堪能して、スペインの知らない二人の時間を増やすことが、ロマーノのささやかな復讐になっていた。