手鍋に残った湯を流すと、シンクはボゴンと大きな音を立てた。
スペインはそっと背後を振り返る。青い月光を端に宿した椅子にテーブル。部屋の中は相変わらず、しんと静まった夜が漂っていた。
「俺の分はねーのかよ」
少し柔らかくなったシーツに体を横たえたと同時に、ロマーノの声が耳を打った。何を、と問う前に唇を食まれる。解放された刹那、自分では感じなくなっていたコーヒーの香りがふっとよみがえる。
「起きとったん」
「起こされたんだよ」
不満を唱えているくせに唇は笑みを描いている。
「責任取れよ。どうせしばらく寝れねーだろ?」
飲みたくなったから飲んだものの、確かに寝しなに口にするものではない。十八番の笑顔を浮かべたロマーノの頬はいつもより柔らかで、触れてくる手は熱い。スペインは余計に自分の目の冴えを感じた。
「ロマの分淹れて来よか」
腹に跨ったロマーノの腰にとりあえず手を当てながら、スペインが今後の段取りを思い描いていると、その手を固定するようにロマーノの手が重ねられた。
「いい。途中で落ちたら好きに使えよ」
「おいコラ」
ロマーノはトマト畑にしゃがみ込んでいるスペインの尻の下に足を差し込み、ぐいっと持ち上げるように蹴った。
「うお、あ!」
羽ばたくように両腕をばたばたさせる努力もむなしく、前につんのめったスペインは、屈強なトマトの枝葉に顔からぶつかって行った。畝の向こう側に手をつき完全な転倒は防いだものの、元に戻ろうとする茎に顔をぐいぐい押されてスペインは涙目になった。
「おいおい、折れたらどうしてくれんだよ」
まるで通行人にわざとぶつかり難癖を付けるチンピラのような発言を、ロマーノはしっかり表情まで作って言った。
「折れたらて、俺の畑やん」
「俺が食うから俺のんだ」
事実この畑――出荷用ではなくスペインの自宅で消費する用――のトマトは、年間収穫量の三分の一ほどがロマーノの胃袋に収まっている。しかし納得がいかないとスペインは複雑な顔をした。その顔には小さく擦り傷が出来ている。
「痛み止め飲んだって、痛みの原因がなくなるわけじゃねーんだよ」
「い……」
スペインの頬がひくりと引き攣り、それを隠すように両手で顔を覆った。土がついているので浮かせ気味だ。
「いやーんロマーノのエッチ。親分の部屋勝手に見たんやー」
「てめぇが掃除しろっつったんだろうが!」
スペインの黄色い声を聞いたロマーノは、嘘偽りない嫌悪を浮かべながら反論した。いやんいやんと振られる尻をもう一度、今度は本気で蹴り飛ばしかねない勢いだ。
「せやったら優しいしてぇな」
「うるせー。心配してやっただけ有り難いと思え。感謝しろ」
「心配してくれたん?」
スペインがわざとらしく首をかしげると、ロマーノは苦虫を噛み潰したような顔で押し黙った。
「なんやー、てっきり俺は飯の時間になったから呼びに来たんかと思たわぁ。そうなんかー、心配してくれてたんかー」
「しつけぇぞ!」
「おい、何言ったんだ?」
「ん?」
「さっきの店でだよ」
持って歩くのはもちろん、車のトランクにも厳しいサイズのソファは、今は薄っぺらな宅配伝票の控えに姿を変えている。生憎と家具を新調する予定がなかったスペインは、ロマーノが熱心に家具を見ている間に、完全な冷やかしで店内のあちらこちらをうろついていた。仕事熱心な店員に掴まると適当な理由をつけてあしらったり、雑談に付き合って貰ったりしていた。
新しいものを買ったのにロマーノのご機嫌が斜めなのは、その手に買った物がないからというわけではない。スペインには心当たりがあった。
「ルームシェアですかって聞かれたもんやから、つい」
いいえ、同棲するんです。と答えてしまった旨をスペインは正直に告白した。そして、家具を見て回る間にロマーノとの新生活を想像しすぎたあまり、思い切り嬉しげに言ってしまったことを照れくさそうに付け加えた。
「だからかよ……」
とある店員がやけに優しくて、それも笑顔の可愛い子だったから嬉しかったのに、とロマーノは何があったのか聞かずとも分かるほど肩を落とした。
「嘘つくなよな」
「ロマーノもな」
きっとスペインが先手を打っていなければ、恋人なんていないと言うつもりだったのだろう。互いの家に互いの服や生活用品があって、休みが合う日は大抵どちらかの家に泊まる。自分たちの「家」の事情さえなければ同棲していても全くおかしくない。俺のは可愛いらしい夢やんかとスペインは嘯いた。
控えめなノックとドアが開く音。視界の端に人影が映り、頼んでいた薬と飲み水が置かれる。言ったつもりの礼は上手く声にならなかったが、言い直すのも億劫で、仕事に集中しているふりをする。しかし使用人は動く気配がない。
「あとで飲むわ」
気の利かない奴だと苛立ちつつ、スペインは仕方なしに声を出した。それでもまだ残っている気配に何の用かと質そうとして、使用人がいるはずの場所に立っていたロマーノを見てぎょっとした。
驚いたおかげで目つきの厳しさはいくらか和らいでいたが、散らせるはずだった鬱憤は行き場を無くして停滞する。スペインは慌てて机に向かった。
「来とったんや。なんや、お客さんにさせるなんて」
「俺が言ったんだ」
それはそうだろう。ロマーノに親しく――「おう坊ン、ついでにこれ持って行ったってくれや」なんて――話しかけられる人間は、とうの昔に引退している。分かっていても言わずにはいられなかったスペインは、その道すらも遮られ、余計に膨らんだ感情を無理やり腹の中に抑え込んだ。
「何か用事やのん? 見ての通り立て込んでるんやけど」
口を笑わせて声を繕う。顔の見える距離でやっても意味のない小細工をしつつ、スペインは望遠鏡を逆から見たように小さく見える文字を追った。
「痛み止め飲んだって、痛みの原因そのものがなくなるわけじゃねーんだぞ」
「……親分にはやらなあかん時があるねんでー」
「んなもん、親分じゃなくてもあるじゃねーか」
ロマーノが小さな声で「やめろよ、それ」と言うのを聞いて、スペインは定まらない視線をさらに彷徨わせた。薬が運ばれてきたということは、先に飲んだ分の効果がそろそろ切れるということだ。そう意識すれば傷口がじくじくと疼き始めたような気になる。
「ロマーノは何の用で来たん」
「別に。用事がなきゃ来ちゃいけねーのかよ」
「あかんことはないけど」
今のロマーノは、昔のように腹が減ったとかトイレに行きたいとかでスペインの部屋に来ることがない。わざわざ訪ねてこなければ、スペインの部屋はおろか、敷地内に入ることすらないのだ。
「連絡なしに来たら何もできへんで。親分のチュロス食いたいやろ?」
「自分で作るからいい。それよりさっさと飲めよ」
ずい、と差し出されたコップを見て、スペインは息を深く吸い込んだ。薬と水、それと憤りを一気に流し込む。ただ薬を飲むにしては大きすぎる息を吐いてから、コップをそっと机に置いた。
「おおきに」
スペインは嫌にうるさい心臓を宥めながら、顔を上げた。
「用事ないんやったら帰ってくれるか」
回りくどい言い方を思いつく余裕はない。澱んだ感情に気付いたのか、ロマーノがわずかに怯んだように見えた。痛快さののちに、後悔の予感がじわりと浮き上がる。
「……分かったよ。じゃーな」
予感が現実となる前に、ロマーノが口を開いた。口を塞がれた形になったスペインは、「すまんなぁ」と言って視線を外した。
「ロマーノは心配せんでええねん」
「……」
出口に向かう靴音にぶつけると、音は止まり、衣擦れの音がして、不服げな目に背中を撫でられた。それは長くは続かず、また靴音は遠ざかる。ドアノブに手をかける音がした。
「……俺が言ったらまずいだろうけどよ、俺はお前でよかったと思ってるよ」
でも、とロマーノは掠れた声で言った。
「俺はもう子分じゃねーんだよ」