髪を梳かすように頭を撫でる手の心地よさに、とろとろと瞼が落ちてくる。頭を預けたロマーノの膝は別段柔らかくもなかったが、慣れ親しんでいるがゆえの安心感がある。スペインは指先からじんわりと広がってくる眠気に抗うことなく目を瞑った。ロマーノは一定のリズムで頭を撫でている。
ふと、ロマーノの手が止まった。腿に一瞬緊張が走る。
目を開けていたら気に留めなかったような些細なことだった。
「どしたん……?」
「なんでもねーよ」
ロマーノは笑いを含んだ声で答えて、くしゃくしゃとスペインの髪を乱した。
その手つきにも愛しみがこもっていることは感じられたが、髪を梳いていたときのような温かさはない。スペインはそのことがやけに気にかかって、ロマーノの顔を見るために首を動かそうとした。
「いいから寝てろよ」
優しく、しかし有無を言わさない様子で手のひらを乗せられる。
――ぴんと来た。
「……ハゲとった?」
ロマーノの太ももがもう一度固くなる。戸惑うような間を開けた後で、小さな声で「ハゲてねーよ」と否定する。
「ベッドの準備してくる」
スペインの問いかけから逃げるように、ロマーノは腰をずらして退くように促した。スペインは大人しく頭を上げると、ソファから立ち上がって足早に去っていくロマーノを見送った。
「ハゲてねーって言っただろ」
いつ来たのか、鏡の中にロマーノの姿を認めたスペインは、慌てて振り向いた。頭髪チェックに使っていたもう一枚の鏡を無意識のうちに背中に隠す。
「……ほんまに?」
によによと笑うロマーノに確認すると、ロマーノは心外だという顔をする。
「俺は一度もハゲてるなんて言ってねーよ」
「そやかて……じゃああの動きは何やねんっ」
「何のことだ?」
ロマーノは白々しく首をかしげた。つかつかと歩み寄ってスペインの手にある鏡を取り上げると、代わりを与えるように密着した。太ももに手を這わせながら、耳元で「なぁスペイン」と囁く。
「確かに、からかいがいがあるっていいな」
「んなっ」
「さー、早く寝ないとオバケが出るでー」
「こらロマーノ!」
にんまりと笑って、懐かしさを感じる台詞を言いながら踵を返したロマーノを、スペインは追いかけた。
「よう!」
張り切った声と共に肩を叩かれ、スペインは顔を上げた。
まだ時期も早いというのに赤銅色に焼けた肌をした親父が立っていた。
緑と土の匂いがする風が吹く。麦わら帽子のひさしを上げて、スペインは頭をひねった。
親父も同じような戸惑いを顔に浮かべたが、先の挨拶と同じように威勢良く言った。
「すまん、人違いだ!」
スペインはその言葉に納得する。
「おーい!」
「おう!」
少し離れた場所から聞こえた声にスペインが反応するより早く、目の前に立った親父が手を挙げた。
「何やってんだよ」
畑の中を大股に歩いてきたロマーノは、スペインのそばまで来ると、麦わら帽子を取って首に掛けたタオルで顔を拭った。首に触れる帽子の紐を鬱陶しそうに指で引っぱる。
「こっちの兄ちゃんと間違っちまってなぁ」
「この男前を他人と間違えるとはどういう了見だ」
親父は見た目通りの豪快な笑い声を立てると、脇に抱えていたクーラーボックスをずいと突きつけた。
「俺が釣ったんだ。すんげぇデカいイカ」
「いいのか!」
ロマーノはぱっと顔を輝かせて手を伸ばすと、中が見えるわけでもないのに、プレゼントをもらった子供のようなきらきらした目で受け取ったクーラーボックスを見つめた。
「息子が家出ちまうと食いきれなくてな」
「早いな、もう引っ越したのか」
「出際までマンマ、マンマと大変だったぜぇ。かみさんはケツ叩いたくせして寂しがってら」
それを聞いたロマーノの目が、イカを貰ったときとは違う風にきらりと輝く。
「俺が行こうか」
「お断りだ。息子と似たような背格好の男にかみさん口説かれちゃ堪らねーよ」
「娘さんももう大きいだろう? 確か今年で――」
ロマーノのその一言がゴングを鳴らしたらしく、既にふつふつと闘志を沸き立たせていた親父は、威厳たっぷりに胸を張った。腕を組む、ただそれだけの動作で筋肉が盛り上がる。
「だめだ! お前は二度とうちに入れねぇ!」
「やれやれ。男の焼きもちは手に負えねぇ。なあ?」
ロマーノはスペインの隣にしゃがむと、無表情にトマトの脇目を摘んでいるスペインの肩を抱いて顔を覗き込んだ。スペインはふいと顔を背ける。
「何やねん」
「聞いただろ? 今晩はごちそうだな」
「……」
「拗ねんなよ」
「……俺のことからかうんは面白いか?」
やりすぎたな。
――そんな顔で、ロマーノはうまい言葉を探すように何もないところを見た。
「悪かったよ」
スペインから手を離すと、ロマーノはどっかりと地面に直接座った。
「お前もたまには嫉妬したらいいって思った」
「……たまにはて、いつも俺ばっかりやん」
スペインは摘んだ脇芽を宙に放った。軽い緑はすぐ地に落ちた。
「……ほんと鈍いよなぁ」
ロマーノは膝に肘を突いて手のひらで頭を支えた。
「あと二百年もすりゃ平気な顔で見られるようになる。それまで辛抱するこったな」
ある新婚夫婦の話だ。
朝、夫を見送りに出た妻が訊いた。
「お夕飯、食べたいものはありますか?」
「君が食べたいな」
結婚してから一ヶ月、ずっと繰り返されてきた質問に、夫はからかい半分に答えた。そんな他愛ない夫の戯れに妻は笑顔を返す。
そして帰宅後、食卓に出されたのは――
「それであんなに焦って電話してきたのか」
呆れ顔のロマーノは、テーブルに最後の一皿を置いた。
「考えなくても分かるだろ。そういう話はあり得ないから怖いんだよ」
「やってぇ」
「だいたい、俺がそんな痛いマネできるわけねーだろ」
五体満足であることを主張するように、ロマーノは情けない顔をしているスペインに向けて両手をぱっと広げた。ようやくおかしさに気付いたらしいスペインが、バツの悪そうな顔をしたのを見届けると、エプロンを軽く畳んで空いた椅子の背にかけ、食卓に着いた。
「それで、夫は食うのか?」
「何を?」
手にしたパンが千切れなくて苦闘していたスペインは顔を上げた。
「出されたシチューだよ」
「それは知らんわぁ。あっこで終わりとちゃう?」
スペインはようやく千切れたパンを口に入れ、咀嚼しながら答える。
「ふーん。……これが俺なら食うか?」
ロマーノは皿に盛ったイカのトマト煮を、スプーンにひとさじすくってスペインの口元に向けた。ロマーノはスペインを、スペインはスプーンに乗った、どう見てもイカにしか見えない輪を見つめる。
湯気に乗ったトマトの香りが食欲をそそった。
「そんなんされたら食べるしかないやん」
あーん、と開けたスペインの口にロマーノはスプーンを運んだ。
「……うまいか?」
「うん、めっちゃうまい」