「お前で良かったよ」
何がおかしいのか笑いっぱなしのロマーノに肩を貸したまま、スペインはポケットから家の鍵を引っ張り出した。
「女の子の前だったら大失態だもんなー」
そう言って、ロマーノはまた笑い始める。上機嫌なのは珍しいが、それでも「にっこり」とまでは行かないのが彼らしいと言えば彼らしい。記憶にあるものよりも随分と重たくなった体を支えつつ、スペインは家の中に入った。
「そこにおってな」
ロマーノをソファに座らせて、頭の中にある電話帳を繰る。この遅い時間にロマーノを送り届けられる者――仕事に確実性があることはもちろんだが、呼び出しの電話が家族の団欒を邪魔しない方が好ましい――を探す。自身が送ってやりたいのは山々だったが、ロマーノほど酔っていないというだけで、スペインもそこそこ酒が回っていた。気を抜けば一気に来るだろうことは想像に難くない。
「スペインのうちに泊まるってのも変な気分だな」
ロマーノはずりずりと尻をずらして横になった。笑いは収まったのか、それとも単に顔が疲れたのか、眠たそうな目でぼんやりと宙を見ている。
「泊まるん?」
すぐに理解できなかったスペインが確認すると、ロマーノはとろんとした目をスペインに向けた。口を開きかけて、面倒くさそうに閉じる。そして欠伸をした。
「帰んのか?」
「俺は知らんよ。ロマーノが決めてや」
「めんどくせー」
笑顔の残像のようなものをふっと浮かべて、ロマーノは目を閉じた。スペインは電話機のある方角とロマーノの顔を交互に見た。
「あかんてロマーノ」
「何がだよ」
「部屋用意するから我慢しぃ」
「お前の部屋でいいじゃねーか」
「それは狭いで」
小さいときならいざ知らず、ベッドは今のロマーノと二人並んで寝るには狭い。それに何か、はっきりとは分からないが、胸騒ぎのようなものがする。単純に言えば「ドキドキする」のだけれど、スペインは胃の据わりが悪いような心地を覚えて、ロマーノの顔を直視できなかった。
「あかんかも……」
ひょっとしたら今日の酒は、明るい酒ではないのかもしれない。元々酒を飲むと感情の振れ幅が大きくなるのだが、どういう方向に向かうかはダイスの目のように予測が付かない。
ひとまずシーツを整えてこよう。
スペインはそう決めると、順調に眠りへと沈んでいくロマーノから目を逸らした。
すぅすぅと静かに息を立てるスペインを、ロマーノはじっと見た。
例えばここがスペインのベッドなら迷わず同じ布団に入るのに――そう思ってしまうほど、スペインは気持ち良さそうに寝入っていた。
しかしここは会議室である。整然と並んだ椅子や机はつるりとして愛想なく、壁や床やその他の備品の数々は年数を経ているものの、やはり生活感とは無縁のものだ。それらに比べてスペインの脇に置かれた内職用の封筒は人の身にとてもよく馴染んでいる。まるでそこだけ別の空間をはめ込んだような様態だった。
会議は既に終わっており、ロマーノを除いた国々は、寝ているスペインを気に留めず、あるいは一瞥して行き過ぎて行った。各々の心にある思惑はそれぞれだろうが、関わりを持とうとしなかったという一点は共通していた。これは今日たまたまのことで、彼らとて寝ているスペインに声を掛けることもあるし、スペインだって寝ていないときもある。ロマーノがただ一人スペインを眺めているのは、ただの偶然に過ぎないのだ。
ロマーノはスペインの隣の椅子を引いて腰掛けた。頬杖を突く。
日に焼けたスペインの首筋には細い鎖が掛かっている。
鈍い色のそれは身を飾ることを目的とした物ではないため、先端に下げられたクロスをロマーノが目にする機会は少ない。着替えるときか、シャワーを浴びているときくらいだ。そのどちらもそうそう遭遇する場面ではなかった。ロマーノがスペインの裸身を見る最も多い機会は情を交わす際であったが、いつ外したものか、スペインの胸に十字架はなかった。
スペインがロマーノを手元に置きたがった理由として、その十字架が無関係とは言い切れない。スペインの深い部分、ロマーノと出会う以前からあるそれは、根ざすどころか種に近い。よく知った肌の下に流れる血をロマーノは知っている。
スペインの首に掛けられた鎖は、スペインとロマーノを繋ぐものであり、隔てるものでもある。
顎を支えた手をずらして傾けると、ロマーノは自分の腕を枕にして目を閉じた。
(今日は休みやて言うとったよなぁ)
洗い終えたカップを食器かごに入れたスペインは、昨夜のロマーノとの会話を思い出した。休みなら泊まっていけばいいのに、ロマーノは早々に引き払ってしまい、スペインは却って寂しい夜を過ごした。
(まだ寝てるかな)
時計が指し示す時刻はいつもより早い。ロマーノが起きているかもしれないし、寝ているかもしれない、微妙な時刻だった。
(声聞きたいなぁ)
そう思ったが最後、スペインは電話をかけずにはいられなかった。
1コール、2コール、3コール……
眠っているのを起こしたら可哀想だ、と切ろうとした5コール目を遮って、ロマーノの声が聞こえた。
『なんだお前か……』
明瞭だったのは最初の「もしもし」の一言だけで、すぐに眠たげな声音に変わった。受話器の奥でごそごそとシーツが擦れる音がする。カーテンの隙間から漏れる朝日を嫌って布団に潜り込んだのだろう。声がいっそう籠もったものになる。
『何か用か?』
「用ってわけやないねん」
声が聞きたかったのだと言うと、聞こえよがしに舌打ちされた。
『くだらねーことで掛けてくんな』
「くだらんことあらへんよ。それに、さっさと帰ってしまうから女の子とでも約束あったんかな、て――」
スペインが言い終わるよりも早く、ばさりと大きな、布団をはね除ける音がした。
『……びびらせんなよ』
「誰も寝とらへんかった?」
受話器の向こうは不自然なほどの静寂だった。
「そこは確かめんと即否定して欲しかったわー」
『バカ言うなよ』
バカを言っているのはどっちだ、この浮気性め、とスペインはロマーノが聞けば「お前には言われたくねぇ」と言うこと必至の台詞を心の内に浮かべた。
「なんで昨日帰ってしもたん? 俺寂しかってんで」
『……休みの朝までお前のお守りしたくねぇんだよ』
電話越しの声では、冗談か本気か今ひとつ判断の決め手に欠ける。同居していた時も別々に暮らし始めた後も、ロマーノに起こされていると言われれば確かにそうだが、ロマーノがスペインを起こすのは朝食のためだ。むしろ世話を焼いてやっているのは自分の方なのではないか。
(嘘やな)
スペインは直感した。
出しっぱなしだった椅子にわざと音を立てて腰掛ける。
「俺ちゃんと一人でも起きれますー。今日かて準備万端ですー」
『アホな電話してて間に合うんだろうな』
あくび混じりのロマーノに言われて、スペインは口を尖らせたまま壁の掛け時計を見た。
(……何やこれ)
ネクタイを締めて、腕時計をして、上着と鞄をぶら下げるには十分すぎるほど余裕があったはずだ。なのに何だ、この時間の経ち方は。
「あかん、今日も遅刻や」