「おい」
ロマーノの呼び掛けにスペインは寝ぼけ眼の顔を上げた。
「忘れ物」
放られた物をキャッチする。手を開いて見ると――口紅だった。
眠気が吹き飛んで、巡り始めていた血が音を立てて引いていく。
「ちゃんとチェックしろよ。レディが困ってたらどうするんだ? なぁ、色男さん?」
ロマーノは壁に肩をもたせかけてニヤニヤと笑っている。休日仕様だけれどだらしなさはない、すきっとした出で立ちで、首回りの伸びたTシャツを着て、顔にシーツの跡を顔につけたスペインとは対照的だった。
「ああ……すまん」
何に対する「すまない」なのか、言った自分でもはっきりしないしないまま、スペインは謝った。
「お前ばっかりずりーぞ」
どさっと勢いよくベッドに腰を下ろすと、ロマーノは不平を唱えた。頭の後ろで手を組んで、背中を倒して仰向けになる。怒っている様子はなくても、じっと見つめられるのは居心地が悪かった。
「どんな子?」
「どんなって……」
誘いをかけてきたぽってりとした唇、肌に触れる髪のくすぐったさ、手のひらの中で形を変える乳房の柔らかさ――コラージュのように断片的に浮かぶものの、どうにも顔が思い出せない。
スペインの思考を読み取ったように、ロマーノは顔をしかめた。
「こんだけ不誠実なお前がモテて、俺がモテないとはどういうことだ」
「お手軽に済ませたい時もあるやん」
何も知らない田舎娘を誑かしているわけじゃないから、咎められる所以はない。お互いに割り切っている。口紅を片手にゴミ箱を連想していたスペインは、ロマーノの顔をもう一度見て思いとどまった。ロマーノがいなくなってからにしよう。
「ロマーノはええ子やなぁ」
連絡先も知らない女の忘れ物をぽいと放って、スペインはロマーノに覆い被さるように抱きついた。ロマーノのナンパが成功しない理由は明白だったし、スペインが言わずともロマーノだって分かっているだろう。
「惚れてたし、好いとったよ」
似たようなことがあった日に「一番はロマーノやねん!」と口にしたら、「一番でもないのに抱くんじゃねーよ!」と一喝された。気の利いた嘘がつければ上手く切り抜けられたのかもしれないが、生憎と舌は一枚しかなかった。
「……今日は一日お前が飯作れよ」
「夜も食べてく?」
胸に押し当てた頭がかすかに動いた。
「この間バルで会うた奴とめっちゃ気ぃ合うて盛り上がったんやけどなー、おすすめやって教えてくれた店があるねん。今度行こな」
そう言っていたスペインがロマーノを連れて入ったのは、柔らかな光の灯る街を一望できるレストラン。客の入りはいいのに騒々しさはなく、しめやかな話し声が夜気に溶け消える。どう見てもカップル向けの店だった。
「おいコラふざけんな、こんな場所だって聞いてねぇぞ」
店内の空気を乱さないよう、低い声で詰ったロマーノは、テーブルの下でスペインの足を蹴った。上半身はすっかり夜景を見る姿勢で、夜景を眺めるフリをしながら窓に映ったスペインを睨む。
「うっ、でも雰囲気はあるやん。ってかオレらやってカップルやん!」
同じく声を潜めてスペインは蹴り返す。さらにやり返してきたロマーノの足をもう一度蹴ってやろうとしたら、ウェイターが注文を取りに現れた。テーブル下の戦争などどこ吹く風で、二人はそれぞれ好みの酒をオーダーする。
「だいたいな」
打ち合わせをしたわけでもないのにすんなり一通りの注文を済ませると、ロマーノはこれが最後だとばかりにスペインの足を蹴りつけて、足を引っ込めた。
「何が悲しくて野郎二人でこんなとこに座らなきゃならねーんだよ」
店内にいるのはカップルか、若い女性の二人組。男二人で座るには距離の近すぎるソファの賜物だった。店の特性として、客はもれなく連れとの会話に夢中だから奇異の目で見られることはないことが不幸中の幸いだった。
「ロマの恋人が野郎やからちゃう?」
スペインはロマーノの足に、自分の足をこつんとぶつけた。
「あっちぃ……」
バスタブに背中を預けたロマーノは口癖のように言った。
ぬるい湯が火照った肌に心地よく当たる。
「なんでお前まで入ってんだよ」
「ええやんか。暑ぅてたまらん」
今日一日、シエスタの時間を除けばずっと畑作業をしていた。流しているときは気にならなかった汗は、家に入った途端にべたべたと不快感を伴ってまとわりついてきた。順番に並んでシャワー、なんて行儀の良いことはできなかった。
スペインに家事の全てをやらせて、自身はゆっくりと休暇を楽しんでやろうという目論見で家にやってきたくせに、ロマーノは「我慢ってもんが足りねぇ」と言い放った。なんとも身勝手なことだ。
「どこで焼いたのって聞かれたら、どうすっかな」
ぼんやりとした眼で自分の腕を見ていたロマーノは、ぽつりと呟いた。重たげに傾げた首。濡れた髪の先から滴が落ちて、静かな水面に波紋を作った。
「スペインって答えたらええやん。思い出話には事欠かんやろ?」
スペインが提案すると、ロマーノは不服げに眉間に皺を寄せた。無意識なのだろうが、太ももに載せられた足を動かされると少しまずい気分になる。何せロマーノの身体に劣情を催すことに、すっかり慣れてしまっている。
「……明日海行こうぜ」
「ええなぁ」
浜風とロマーノの汗の香を思い浮かべながら、スペインは同意した。
部屋中に旨そうな匂いが漂っている。
スペインはベランダから摘んできたパセリをロマーノの手に押しつけて、パセリを取りに行かされる前に座っていた椅子に元通り収まった。旨そうな匂いの起点であるフライパンに、自然と目が吸い寄せられる。
出来上がりを座して待つというのは何と楽しいことだろう。手間と時間を掛けて料理を教えた甲斐があったというものだ。かつて折り上げてやった袖は適当に捲り上げられ、蝶結びにしてやったフリルのエプロンはボタンで留める飾り気のないものに変わっている。もちろん、足元には踏み台なんてない。
迫り来る空腹感を宥めながら、パセリを刻むロマーノを眺めていたスペインは、ロマーノの首筋の、ぷつっと膨らんだ虫刺されに気が付いた。見た感じ新しいそこは、ロマーノが血を吸われたことに気づいていない可能性と、かゆくなることを恐れて触れないようにしている可能性の、どちらも十分考えられた。
スペインは何度かロマーノの姿を見直してから、そっと立ち上がった。
ロマーノが包丁を置いたのを機に、首筋に唇を寄せる。
驚きの声を上げて硬直し、産毛を逆立たせたロマーノのうなじを吸いつつ、スペインはまな板の上の包丁を遠ざけた。もし滑り落ちでもしたら大変だ。
「待てよ、なんだよっ?」
ロマーノは濡れた手のやり場に困っているのか、両手を中途半端な位置に掲げたまま文句を言った。どうやら刺されたことには気付いていなかったようだ。スペインが患部をさらに舐めると、やっと痒みを知覚したらしく、小さく呻いた。
「……おいっ」
「うん」
スペインは不機嫌なロマーノに生返事をして、動こうとする腰に腕を回した。腫れを増した患部を強く吸うと、ぴくんと震えたロマーノは、引きはがそうとしていたスペインの手を、逆に押し付けるように掴んだ。折角だから、とスペインが虫刺されとも関係ない箇所にも口付けても、ロマーノは拒まないどころか、俯き、迷うような素振りを見せた。
「……ロマ、気持ちええ?」
何を聞くのかと言いたげな目で睨まれて、スペインは合点した。
ロマーノは虫に刺されたことにまだ気付いていない。
我慢の限界を訴えている空きっ腹と、エネルギー不足もあって今ひとつ気分の乗らない分身。首脳会談を一瞬で終わらせたスペインは、ロマーノから離れると、自分の首筋をトントンと叩いた。
「刺されとる。飯の仕上げは俺やっとくから、薬塗っといで」