ハグされる時に、間違ったふりをして逆の頬を出すといういたずら。なぜそんなことを男相手にしようと思ったのかは分からないが、思いついたその場で実行した。唇同士が触れる寸前で、スペインは身を引いて「ごめんなー」と軽く笑って言って、頬にし直した。
 一歩踏み込んでキスしてしまえばよかったと、なぜか、ひどく、後悔した。

 ***

「最近ロマーノの様子がおかしいねん。話しかけたらちゃんと答えるし、仕事言いつけても文句言わんとやってるし、キスしてもハグしても大人しくしてるし」
 オーストリアは、現状を異状だと言うのなら世間の大多数が異状ということになると言いたい気持ちを堪えた。訪ねてきたスペインが深刻な顔をしていたものだから、何ごとかと思っていたのだ。
「あんなにイタリアと取替えて欲しいと言っていた貴方には、願ったり叶ったりではありませんか」
「そりゃ嬉しいっちゃ嬉しいけど、こういきなりやと病気やったらどうしようって心配になるやん」
「心配しなくてもそんな病気はありませんよ」
「やんなあ。イタちゃんはそんなことない?」
「強いて変わったと言うなら……声変わり、ですかね」
「そっかー、イタちゃんももうそんな時期かあ。ロマーノは声変わりの最中、声が出にくいからって余計に口で言わんようになったから難儀したわ。イタちゃんはそんなこと……ある訳ないよなあ」
 居心地悪そうに視線を脇へやったオーストリアに、自分の思考に半分浸ってその時のロマーノを思い出しているスペインは気付いていない。動揺に気付かれなかったことに安心しながら、オーストリアはロマーノの扱いについて相談を受ける度に言っていることを繰り返した。
「毅然とした態度を取らないからそんな目に遭うのです」
「言わんといてえな。……はぁ、そんならお年頃ってやつかなあ」
「その言い方はどうかと思いますが、思春期というのは十分に考えられますね。何か思うところがあるのか、本人に聞いてみてはいかがですか?」
「あんまり家空けるんも不安やし、帰ってそうするわ。ありがとう、助かったわ」

 ***

 買い物帰りにロマーノの手を握るのは、癖のようなものだった。
 握った手は怒って振り払われるか、仏頂面ながらも繋いでいてくれるかのどちらか。
 ところがその日は、ロマーノは怒りもせず無言のままで、するりと手を解いたのだ。ごく自然な動作で抜け出すように手を離すと、何ごともなかったように先へ進む。
 その行動の意外さに思わず歩みを止めた。
 数歩先で立ち止まって「なんだよスペイン、帰らないのか?」と振り返ったロマーノに、謝りながら小走りで追いついて並んだが、その手をもう一度取ってみる気にはなれなかった。
 今思ってみると、何度も子供扱いするなと言われても態度を改めなかった自分に対する抗議だったのかもしれない。ちょっと違うが、自分はいい加減に子離れするべきなのだ。


「ただいまー」
 少し大きな声で帰宅したことを告げると、すぐ脇の扉が開いてロマーノが出てきた。
「ロマーノ、ちゃんと留守番してたか?」
「お前がいない間も特に何もなかったぞ」
「そっか。ところで今、手ぇ空いてる?」
「まだ窓が拭けてない。用事があるなら終わったらスペインのところ行くから」
「ほな窓拭きは今日はええわ。ちょっと話したいから俺の部屋行こか」

 部屋に入って、椅子を向かい合わせに並べて、スペインは切り出した。
「単刀直入に聞くけど、最近どうしたん?」
「別に、どうもしてないぞ」
「そんなはずないやろ。最近ロマーノ何かおかしいやん」
「……俺が何か失敗でもしたのか?」
「いや、してないけど」
「ならいいじゃねーか。だいたい、おかしいってどこがだよ」
「どこがって……大人しいとことか、俺の言うこと聞いてるとことか…」
「お前いつもそうしろって言ってただろ。それをおかしいって、どういうことだよ」
 スペインは返された言葉に口篭った。オーストリアも言っていたように、この状態はスペイン自身が望んでいたことでもある。
「でもなんか、愛想のないイタちゃんって感じがして落ち着かへんねんなぁ」
 スペインが小声でそう漏らしたと同時に、ロマーノは椅子から立ち上がった。
 自分の失言に気づいたスペインは焦って腰を浮かすが、
「話終わったよな?」
 ロマーノは全く変わらない表情で、話の終了を確認してきた。体は既に出口に向いている。
「いや俺は納得できてへんねんけど」
「実際にどうもしてないのに、それ以外にどう答えろって言うんだよ。窓拭きしなくていいんなら今日の仕事終わりだから部屋で寝る」
 話しながら出口へ向かい、廊下に出てしまってから「起こすなよ」と言い残してロマーノは去った。
「聞かれてへんかったか……良かった。でも、やっぱりおかしいよなあ」
 スペインはぞんざいな口を聞かれて安心している自分に呆れながら、椅子に深く腰掛けた。

 ***

 足早に廊下を抜けたロマーノは自分の部屋に入ると、ベッドに倒れこんで、抱えた枕に顎を乗せて、細く長く、できるだけゆっくりと息を吐いた。
「……嫌いだ」
 スペインがいつでも弟のことを持ち出すことが、ロマーノは嫌だった。
 それに耐えて、自分の方が年長であるというプライドも捨てて、ヴェネチアーノのように「いい子」でいようと努力したのに、やはり弟には勝てなかった。所詮は真似しているだけなのだから本人に勝ることができないのは仕方ないと自嘲しても、遣り切れない思いは募る。
 抱き締められたときに腕を回して抱きつくことができれば、褒められたときに素直にありがとうと言えれば、楽しいときに思いきり笑うことができれば、どれだけいいか。
 弟と比べられたくないと思う反面、弟のようになりたいと思う矛盾に頭が痛くなる。
 それもこれもあいつのせいだと、ロマーノはスペインを恨んだ。
 使用人ではなく子分という、割り切ってしまえない半端な立ち位置。
 スペインが雇い主然としていれば好かれたいなんて思わなかったし、一人前に見て欲しいなんてことも思わなかった。スペインに好きになって欲しいのは「自分」であるが、もしヴェネチアーノを真似ている今をスペインが好きになったのなら、それを一生演じ通すつもりでさえいたのに。
「俺はスペインなんか、大嫌いだ」
 ロマーノは仰向けに寝転がって呪文のように唱える。
 これで嫌いになってしまえれば万々歳だ。
 頬を伝った涙が耳に入って気持ち悪いが、起き上がる気にはなれなかった。


「ロマーノ!」
「な、ス、スペイン!?」
 いきなり扉を開けて入ってきたスペインに、ロマーノは慌てて布団を頭から被った。掛け布団の上で寝ていたから布団は表裏逆になるが、そんなことはこの際気にしていられない。
「よかったあ、まだ寝てへんかったか」
「そんな大声出したら寝てても起きるだろうが! しかも勝手に入ってくんな!」
「だって分かってんから、すぐ聞かな損やろ?」
「何がだよ!」
 泣いていたせいで震えそうになる声を隠すのと、怒っているというアピールを兼ねて、怒鳴る。
「ロマーノ好きな子できたんやろ?」
「は!?」
「心配せんでも俺はロマーノが聞かん坊で困るなんて言わへんから、今度紹介してぇな」
 スペインは、ベッドに腰掛けて「なあ名前何なん?」と聞こうとしている。女の子をナンパすることなら軽いロマーノが悩むという本気具合を見せたことと、異変の原因が分かったことと、単にちょっかいを掛けるネタが見つかったことがない混ぜになって、余程嬉しいらしい。
 好きな相手ができたというのも、スペインに困った奴だと思われたくないというのも当たってはいて、全くの的外れではないだけに、ロマーノは反応に窮した。
 言ってしまったことを冗談だったと済ませられる器用さはない。嫌われたら、スペインの家にいることは上同士の取り決めだから家から追い出されることはないにしても、遠ざけられるのは確実だ。
 自分の中で、諦めろと言う声が聞こえた。
「……名前言っても怒らないか?」
「なんで俺が怒るねんな」

 跳ね起きて、被っていた布団をスペインに頭から被せて、そのまま押さえる。
 自分から抱きつけるのはこれが最初で最後かもしれない。
「ちょお、そんな恥ずかしがらんでもええやん。これ苦しいって」
「……スペイン」
「何?」
「だから、好きな奴の名前」
「うん、せやから、何て言う子?」
「だから! 俺が好きなのはお前なんだよ、スペイン!」
「ロマーノ、からかわんといてぇな。言いたくないのやったら言わなくてもええから」
 ここまで腹が立つのは初めてだった。
 布団を引っ手繰って、スペインが困った顔をで浮き上がった髪を手で寝かせながら何か言おうと口を開きかけたのを無視して、ぶつけるように口付ける。
「冗談で男にこんなことしねぇよ、ちくしょうが」
 ロマーノはスペインの肩を突いて体を離すと、ベッドから飛び降りて靴を引っ掛け、駆け出したが、
「待ちやロマーノ!」
 怒号に思わず身を竦ませて立ち止まった。
「俺の答えはいらんのか? 好きになった相手の気持ちも考えられへんのか?」
「き、気持ちが分かってないのは、お前の方じゃねぇか」
「確かに分かってへんかったけど、今聞いたから、少なくとも知っとる。答えが欲しかったから俺に言うてんやろ? それやったら、逃げたらあかんで。自分の欲しい答えやなくてもちゃんと持って帰ってくれやな、俺は困るわ。……ロマーノ、こっちおいで」
 振り向くと、スペインは苦々しい顔で睨むように見ていた。逃げる隙はできそうにない。
 仕方なしにロマーノはベッドの横まで戻る。顔の高さまで持ち上げられたスペインの手に反射的に目を瞑ったが、数度軽く頬を叩かれて、目を開いた。悲しげに細められた目と目が合った。
「答え、明日まで待ってな。流石に即答はできへんわ」
「……怒らないのか?」
「怒らへんて言うたやろ。それに怒るようなことでもない」
「気持ち悪くないのか? 俺男だぞ」
「ロマーノのことは俺も好きやし、気持ち悪いとは思わへん。ただそういう好きとは違ったから困ってるねん。今のロマーノとの過ごし方、かなり気に入ってるからな、壊したくない」
「……俺が言ったこと、取り消せない…よな?」
 嫌われていると思っていたところを好きといわれて、決心が鈍った。
「そんなことしたら頑張って言うたのがもったいないで。不安やねやったら言うといたるけど、俺の答えは今まで通りロマーノには子分でおってもらうか、恋人になるかのどっちかや。嫌いにはならへん。さ、出て行くんはええけど、晩飯までには戻って来いよ」
 そう言って、スペインはロマーノの頭を撫でた。
「子供扱いするな」
「分かった、それも考えとく」


 翌朝ロマーノは、おはようの代わりに唇にキスされることになる。
 ただ、子供扱いはなかなか止めてもらえそうになかった。