一人で町を歩いていた。
 真っ暗でないのが逆に不安になるような、薄暗い道。
 太陽はとっくに沈んでいるから、早く帰らないと夜になってしまう。
 頼んでもないのにスペインが待ってる。仕方ないから、早く帰ってやろう。

 まだ開いていた門を通って、扉の前。
 呼び鈴の音に出てきたのは知らない奴。きっと使用人の誰かだろう。
 家の中の、少し離れた所からスペインの声が聞こえた。戸口に立つ男が何か答える。
 スペインが顔を覗かせる。俺を見ると少し眉を寄せて、首を傾げた。
 何やってんだ。何でそんな顔するんだ。

「いや、知らん子やわ。……えーと、ごめん、ボク、誰さん? 道に迷ったん?」



 ――目が覚めた。
 全身を取り巻く寒気にも似た不快感に、ロマーノはぎゅっと枕を抱き寄せた。
 肌に触れたひやりとした感触に首を竦める。寝巻きが汗で濡れていた。
(……なんだよ、自分で連れてきたくせに)
 眠ろうとしたらしただけ目が冴え、うずまく不安は色濃くなるばかり。起き上がってシーツの皺を伸ばしたり、毛布の端をいじったりしても、断片的に映像が見えて落ち着かない。


 先に見に行ったスペインの部屋にはいなかったから、まだ打ち合わせでもしているのだろうと、ここのところ人の出入りが多かった部屋へ行ってみると案の定、人の声が聞こえた。しばらく聞き耳を立てていると、スペインの声も確認できた。
 文句を言ってやろうと思っただけだ、と自分に言い聞かせる。
 頭の上に手を上げて、ノック。
 近づいてくる足音が聞こえて、取っ手が捻られる音。光の帯が広がっていく。
『誰さん?』
 ロマーノは、頭の中ではっきりと再現されたスペインの声と表情に、びくりと肩を震わせた。
 頭を締め付けられるような圧迫感。足元がガクンと沈みこんだ気がした。


 ***


「どうしたん?」
「いえ、ノックの音がしたように思たんですけど、誰もいてはらへんくて」
 気のせいですかね、と首を傾げる部下。
 スペインはふとロマーノのことを考えたが、この時間なら寝ているはずだとその考えを振り払った。なにしろ一度寝ると起してもなかなか目を覚まさないのだから。
「寝ぼけてるんちゃう? そろそろまとまるから、もうひと踏ん張りしよ」



「……とは言っても、何か気になるよなあ」
 打ち合わせが終わって、全員が部屋を出た後、スペインはロマーノの部屋に向かった。

 起こさないように、そっと部屋の扉を開けたスペインの目に、空っぽのベッドが映る。
 扉を押して部屋に入ってベッドに触れたが、人が寝ていたらしい温度はもう残っていない。いつもなら起きたまんま、ぐしゃぐしゃになってるシーツも心なしか整えられていて、トイレだとか喉が渇いたとか、そんなことではなさそうだ。
(まさか出て行ったとか?)
 ロマーノに早く家に慣れてもらえるよう気を遣っていたつもりだが、少し叱り過ぎたかもしれない。子分ができたことが嬉しくて、ついつい構っては結局叱ることになってしまう。褒めてやろうにも褒められる行いが見つからなかったのだ。だから好かれてはいないだろうとは思っていても、家出するほど嫌われているとは思っていなかったからショックだった。
 スペインは思い当たる場所が全くない自分に苛立ちながら、屋敷内の地図を思い描いた。
 家の中にいるなら安全だから後回しで構わない。ならば探すべきは外だ。正面玄関は打ち合わせをしていた部屋からは遠いし、家出だとしたらまずは通らないだろう。
 目星をつけるが早いか、スペインは駆け出した。



 時間が時間だからか、出入り口に着くまで誰とも会わなかった。
 大事にしたらロマーノが恥ずかしいに違いないから家人に呼びかけまではしないが、人手が欲しい気持ちもあったスペインには、少し残念だった。
 だが、その思いも、扉の閂が開いていたことで吹き飛んだ。
 外へ飛び出して十数歩走った所で、扉の閉まる音がしないことに気付いて振り向く。
 直角に開いた扉はその位置で止まってしまっている。鍵はともかく、開けっ放しはまずい。
 軽く舌打ちして戻りかけて、扉の陰に座っているロマーノを見つけた。
 体のすぐ横まで扉が迫っているというのに、胸に抱いた枕に顎を乗せたまま動かない。
 そういえば枕がなかったなと頭の隅で思いながら、スペインはロマーノが寝ていたら抱えて戻ろうと、側へ歩いていった。

 近づいてみると眠ってはいなかった。半眼でぼんやりと足元を見ている。
「どうしたんだ、こんな所で」
 しゃがみこんで声を掛けると、ロマーノは緩慢な動作で顔を上げた。
 しばらくぼーっとスペインの顔を眺めていたと思うと、目を見開き、大げさなほどに息を呑んで身を引いた。枕を掻き抱いて、ガタガタ震えながら後ろへ退がろうとする。
「そんなに怖がらなくても別に怒ってるんじゃないよ?」
 あまりの怯えように、スペインは苦笑いしながらも極力優しく言ってみた。掃除を言いつけたり言葉を教えたりするみたいにじゃなくて、普通の幼い子供に構うみたいに。

 ロマーノの震えが止まった。
 ホッとする間もなく、体が大きく傾ぐ。
「……え、ちょっと、大丈夫か!?」
 頭を地面にぶつけるすんでの所で抱き止める。
 気を失っている。
 衣服が汗でぐっしょり濡れていて、夜気に晒された水分は冷たくなっている。
「こんなん着てたら風邪ひくで……」
 スペインはロマーノを脱がせて、自分の上着の中に抱き込んだ。



 自室に戻って抱えていたロマーノをベッドに寝かせ、スペインは自分の服から衿元の詰まっているものを探して着せなおした。裾も袖も随分余るが足りないよりは良い。
 呼吸は安定しているから医者は呼ばなくても大丈夫だろう。だが、着替えさせるときに触れた体は冷たかった。温めようにも、まだ寒くなっていないから部屋に火を入れる用意はない。
「……俺が抱いてたらええか」
 気絶する前の様子が尋常じゃなかっただけに一人にするのは抵抗があるし、何よりここは自分の部屋だ。何かあったときにすぐ出られるよう、服はそのままでベッドに潜った。
 ロマーノの体の下に腕を入れて抱き寄せ、胸元へ抱え込む。
 なるべく早く温まるよう、意識が戻るよう、腕をさする。腕は掌で容易に包めるほど細い。
 もしかしたら、こんな風にロマーノを抱き締めたのは初めてかもしれない。


「…………スペ、イン?」
 双方の体が温まって、スペインが睡魔と闘うことを考え出した頃、小さな声が聞こえた。
「ん? 気がついたか?」
 慌てて意識を引き戻して腕の中を見ると、ロマーノが不安げな目で見上げていた。
 ロマーノはスペインと目が合うと顔を伏せたが、余った袖の中でもぞもぞ手を動かして、布越しにスペインの服を掴んだ。

「気絶してたんだぞ。なんであんな所に――」
「名前、呼んで」
 スペインの言葉を遮ってロマーノが言う。
「え?」
「俺の名前、呼んで」
「ロマーノ? どうした?」
「もう一回」
「ロマーノ?」
「もう、一回、呼んで?」
「ロマーノ。……その、どうしたん?」
「俺のこと知ってるよな?」
「そりゃ、うちの子なのに、知らなかったらおかしいだろ」
 混乱するスペインを他所に、吐息と共に「よかった」と吐き出して、ロマーノはスペインの胸に頬を寄せた。服を握り締めたまま眠りに落ちる。

「……なんやねんな」
 答えは返ってこないと知りつつも、スペインは呟いた。


 ***


「なあああああぁ!!?」
「どうしたんや、朝っぱらから……」
 ロマーノの叫び声で目が覚めたスペインは、眠い目を擦りながら尋ねる。
「何でお前が一緒に寝てるんだよ!」
「……昨日の晩のこと、覚えてないのか?」
「何がだよ!」
「んー、まあ、いいや。おはよう、ロマーノ」
 抱き締めて、額にキス。

 三秒後、スペインは顔に押し付けられた枕で窒息しそうになった。