スペインに手を引かれて廊下を歩く。
子供扱いするなと振り払いたかったが、飲みすぎたのか、手足の感覚が心もとない。
手を引かれているというのも、俺の手をスペインが握っていて、同じ方向に進んでいることを目視しているから分かるのだ。強制的ではない、導いてくれているような、少し懐かしい感覚。
「今までロマーノには苦労かけたなあ。でもそれももう終わり。今日はありがとうな」
ああ、そういえば、スペインの家が持ち直したことを祝って飲んでたんだっけ。
祝われているはずの本人が酒を次々注いでくるものだから忘れていた。自宅から持ってきたのもスペインが用意していたのもあっという間になくなって、仕舞いにスペインは「とっておきの秘蔵品」だとか言って年代物らしいボトルまで出してきた。
眩しい光に目を細める。どこか部屋に入ったらしい。
明かるさに目が慣れてくると、部屋の真ん中に枕だけぽんと置いたベッドが置いてあるのが見えた。そこに座らされて、それから肩を押して寝かされる。少し硬くて、シーツも何も掛かっていないから冷たく感じる。一人で寝るには広いから余計に。
「スペイン、これ……」
視界にスペインがいないことに不安になって、体を起こそうとしたが叶わなかった。
「ああっ、ロマーノ、動いたらあかん。大丈夫、俺はちゃんとこの部屋の中におるから」
声は届いたのか、スペインが駆け寄ってきて頭を押さえられた。
「……何するんだ?」
「嫌やわロマーノ、分かっとるくせに。飲んでる最中に言うたやろ? これからはずっと一緒やって」
耳元で囁く声の低さと、額を合わせて見てくる瞳の近さと熱っぽさに、顔が熱くなる。
シャツのボタンを外されるのも体が動かないから見ているだけで、行為を素直に受けるのが恥ずかしくて思わず目を伏せた。瞼に触れた唇の感触が、これから起こることへの期待を掻き立てる。
なのに、スペインは身を引いた。
脱がせたシャツを体の下から抜き取って、手際よく畳んで、何事もなかったように離れていく。ドアとは反対側の壁際で何かをいじっているが、スペインの背に隠れて俺からは見えない。引き出しを開ける音と、何かを取り出し並べていく音。
「俺が手ぇ握ってるん分かるか?」
戻ってきたスペインは俺が寝ている脇に腰掛けて、聞いた。
置かれた状況が全く分からない。とりあえず質問に答えようと首を振ろうとしたらできなくて、話そうとしても上手く声が出なかった。
「よっしゃ、ちゃんと薬効いてきてるな」
薬という思いもよらない単語に、瞬きながらスペインを見る。どうやら目と耳はまともに動くらしい。
「黙って飲ませるんは悪いなって思ったけど、ロマーノに痛い思いさせる方がもっと嫌やからな。最後に飲んだの覚えてるか? 体の感覚が麻痺する薬やねん」
そういえば、スペインはあのボトルの中身を飲んでいなかったような気がする。でも俺一人で一本空けることはその前にもあったから全然不思議になんて思っていなかったし、味も――味は、飲みすぎていて分かる状態じゃなかった。
「こんだけ時代が進んだら、戦争があってもあの得物は使われへんからな……衛生的とも言い難いし。ええ職人探したから、試し斬りはしてへんけど切れ味は確かやで」
目の前にかざされた短柄の斧。その刃には、いつだったか、出征するスペインが持っていたものに似た彫刻が施されていた。
「もうちっさい時みたいに掃除なんかさせへんし、ご飯も俺が作ったるし食わせたる。お風呂もトイレも俺がちゃんと世話したるから、だから、もう要らんねんで」
言いながら、俺が向いているのと逆方向に斧を移動させる。
何が要らないんだろう。何が起こっているのか知りたくて、スペインの体を目で辿ろうとしたけど、首が動かないから精一杯やっても反対側までは見えない。気付いたスペインが俺の顔に手を添えてそっちへ向けてくれた。
斧の刃先が、二の腕の中ほどに当てられている。
まさかと思う暇もなく、斧が振り上げられて、振り下ろされた。
鈍く篭った音が聞こえると同時に視界がぶれる。もう一度ぶれを感じた後、フィルムに走るノイズが増えるように、鮮やかな赤色が視界を侵していった。
「大丈夫か? 痛くなかったよな?」
痛みはない。なのに苦しくて、叫べない代わりか涙が溢れる。そのせいで、優しく声を掛けてくれるスペインがどんな顔をしているのかが見えない。
マットに染み込みきれずに広がっていく赤い水溜りから立ち上る鉄臭さに、頭の冷めた部分が血が出ているのだと伝えてくる。布を巻いて、その結び目に挟んだ棒を回して締め付けていく止血方法。ぼんやりとしか見えなくても、時々戦場で見ていたから分かった。
「そんなに泣いたら干からびてまうで」
顔を天井に向かされて、水差しを口元に当てられる。別の手で頬に布が当てられて、涙を拭われる。
それでいくらか落ち着いて分かったことは、「要らない」と言われたのは俺の腕で、スペインはその要らないものを取り去ったということ。どうしてかは説明されていたけど、何かが分からなかった。
スペインは、さっきと反対側に回って斧に付いた血を拭いている。
俺が見ていることに気付くと、にこりと笑って言った。
「そのままやと滑るかもしれへんからな。もうちょっと待ってな」
***
「……ーノ! ロマーノ!」
目が覚めて見えたのは見慣れた天井。聞こえてきたのはスペインが呼ぶ声。
ああ、夢だったんだ。
「スペイン?」
「ああー、良かった! ロマーノが目ぇ覚まさへんかったら医者ぶん殴るところやったわ」
泣き笑いのような顔で抱きついてきたスペインに、大げさだなと思いながらも、抱き返そうと手を伸ばす。こっちも怖かったんだ。
あれ?
「スペイン、ちょっと、離れ……いや、やっぱり……」
おかしい。いや、気のせいだろ。昨日の酒が残ってて――。
「なんやねんな」
スペインが呆れ顔で身を引く。
ない。
認識した瞬間、熱したフライパンに触ったような痛みを感じ出す。両腕の在ったところに。
「ッ……おいスペイン。俺、何か事故にでも遭ったのか?」
大丈夫だ、耐えられる。もう子供じゃないし初めて怪我をしたわけでもない。そう言い聞かせながら、夢が夢であったことを確かめる。
「憶えてないんか?」
「寝てる間に変な夢なら見たけど、事故に遭ったことは憶えてない」
「事故なんか遭うてないで。そんなんでロマーノが腕失くしたら、俺堪らんわ」
スペインが、ベッドの上に乗り上げる。
「そんなことがないように俺が切ったってんやんか。俺はロマーノの手、好きやねんで? 料理するんも畑作るんも上手いし。女の子みたいな繊細さはないけどそれは働き者やからや。これでやっと、誰かに傷つけられたらどうしようなんて不安な思いせんで済む」
「無かったら、俺はもう料理も畑仕事もできないんだぞ?」
「そんなんは俺がやるからもうやらんでええねんで。今まで苦労させてきた代わりに、これからは俺のできることは全部ロマーノにしてあげたいねん。俺の覚悟やから、受け取ってな?」
夢じゃ、ない。
でもおかしなことがもう一つ。
「スペインはなんで俺の真正面に座れてるんだ?」
寝たまま見ていても自分の体の大きさくらい分かる。スペインが座っているところには膝があるはずで、俺は膝を曲げている感覚もないし、見た限り布団にはそれらしい膨らみもない。
「ロマーノ、ほんまに憶えてないねんな」
スペインは少し残念そうに言って、体をずらすと掛け布団を捲った。
脚がなかった。両脚とも太腿の半ばで途切れていて、包帯が巻かれていえる。
「一人ぼっちにさせたり助けに行かれへんこともあったやろ? 俺後悔してんねん。これからは、どっか行きたい時は好きなだけ我侭言ってくれてええねんで。トイレや風呂はもちろん、ロマーノが望むんなら地球の裏側だって連れて行ったる! でも俺にしか頼んだらあかんで。他の奴なんかに言ったら、そのまま連れて行かれるかもしれへんからな。いつも一緒におろな」
脚でも腕でもなくて、胸の辺りがぎゅうぎゅう痛い。苦しくて、辛くて、吐きそうだ。
「ロマーノ泣かんとって。今は痛いかもしれへんけど、きちんと処置させたから、傷口はそんなひどい痕にはならへんで。きっときれいに治るから、な?」
変わらないスペインの笑顔が余計に胸を苦しくさせる。ひどいことをされたと思うのに憎めなくて、いっそ別人みたいになっててくれた方が楽だった。昨日までと同じなのは嫌だ。
慰めるように抱き締められても力いっぱいしがみつくことはできなくて、大声を上げて泣くこともできなくて、自分の存在が不安になる。
「……俺はもうスペインに抱きつけないんだぞ。それはどうするんだ?」
自棄を起こして、普段なら絶対に言わないことを言ってみる。
頼むから答えないで。納得させないで、俺にどうしてこんなことをって言わせて。
「心配せんでも、ロマーノはこっちで俺を包んでくれるやろ?」
スペインは笑いながら俺の脚の間に手を入れて、後ろを指でなぞった。