洗い場で水の中に指を入れたロマーノは、冷たさに身を縮こまらせた。震えながらそろそろと息を吐いて体を解して、しばしの逡巡の後に、意を決して水に浸したシーツを掴み上げる。身を乗り出すようにしてシーツを洗いながら、思い出したように息を継ぐ。鼻が痛いし、水も夏の心地よさとは程遠いし、乾いた風が目に沁みる。良いことなしだ、とロマーノは冬への不満をだだっ広い布にぶつけた。

 ロマーノは最後の一枚を水揚げして、見た目のかさは減ったのに、重さは増している洗濯物の詰まった籠を持ち上げた。ずっとかがんでいたせいで、関節は油が切れたように軋む。
 冷えすぎて感覚がなくなっているくせに痛い耳に転がり込んできた、車輪が石畳を転がる音。靴音と声が入り交じった向こうを見透かすように、ロマーノは大通りに抜ける細道に目を遣った。

 吸い寄せられるように大通りへ出たロマーノを待っていたのは、スペインが遠征に出てから何度目になるか分からない失望だった。
「……いい加減に帰ってこいよ、ちくしょう」
 荷駄を見送り、洗い場に戻ってもう一度手にした籠はさっきよりも重たかった。


   ***


 水を汲んだロマーノが戻った時、屋敷の中は外にいるロマーノにも伝わるほど騒がしくなっていた。
 木桶の中で揺れる汲んだばかりの水に目を落としたロマーノは、映った自分の顔を見て唇を一文字に結んだ。何回期待して裏切られれば気が済むのだと自分を叱って、桶の手を握りなおす。勢い余った水が服に跳ねたが、客人ならここでもたついていてはいけないと、気にせず裏口へ急いだ。
「ロマーノ!」
「はい、今戻り──」
 返事をしかけて気付いたのは、声が聞こえたのは見ている方角とは逆からだったということ。
「……嘘だろ」
 振り返ったロマーノは目を見開いた。
「なんでスペインが……ここにいるんだよ……」
「もしかして俺の葬儀済ませた後やった?」
「んなもんあってたまるか!」
 照りつける太陽が誰よりも似合うはずなのに、真昼の光が曝し出したのは、まとった衣服のほつれと傷の増えた鎧。顔色は冴えないし髪は土埃で白っぽくなっている。瞳の緑だけが鮮やかなままだった。
 棒立ちになったロマーノに向けて、スペインは飛び込んで来いとばかりに腕を広げた。
「ただいま、ロマーノ。ほら、あっ」
「げ!」
 敷石に蹴つまずいたスペインを見て、ロマーノは尻込みしていたことを忘れて駆け寄った。
 疲労の溜まった体と鎧は重たかった。膝をついて、尻もついて、やっと崩れる体を止められたが、顔から地面に倒れるのを防いだという程度の功しかないように思える。放り出された木桶は、幸いにも少し離れた所に水溜りを作った。
「ちくしょう、ちゃんと前見ろよ!」
 腕を突っ張ってスペインを見上げると、スペインは少し困った顔をした。
「ロマーノの泣き顔しか見えへんで」
「見るなっ」
「どっちやのな」
「今はもう見るな。……あと、おかえり」
 顔を伏せて額でスペインの胸を叩く。防具が硬くて痛い。鉄さびと砂のにおいがした。

「元気にしててよかった。元気すぎて家のもん困らせてへん?」
 ロマーノが泣きやむのを待ってから、スペインが切り出した。
「誰がそんな馬鹿なことするか」
「せやけど前に出てた時……ロマーノがまだ俺の腰までくらいやった頃、帰ったらロマーノの部屋にどっから持ってきたんやって椅子とか置物とかあって困ったもん」
「もうそこまで子供じゃねーよ、ばかやろう」
「前もそう言ってたで」
 くすくす笑うスペインの胸を拳で叩くと、その手を取られた。思わず顔を上げると、スペインは何が珍しいのか、拳を解かせてまじまじと手や指を見ている。
「痛くないん?」
「痛がってて仕事ができると思うか? お前の方こそ大丈夫かよ」
 水仕事や畑仕事で荒れていることだと知って、ロマーノは眉を寄せた。これでも皮膚は丈夫になった方だし、それを言うなら今触れているスペインの手の方が荒れていた。
 国だからと言えばそれまでなのだが、スペインの身体は家の大人と比べると成熟しきってはいない。それなのに手の平や指の腹は、マメが潰れたのがタコになったのか硬くがさがさしており、甲側も肌理の粗さが目立つ。爪が磨り減るまで使い込まれた職人の手に近いものがあり、幼いところのある顔立ちとはアンバランスだ。
「痛がってたら仕事にならへんもん。ロマーノの手くすぐったいわ」
 スペインは指を撫でていたロマーノの手を捕まえた。
「水ごめんな。汲み直してくるわ」
「自分で行くからいい。上司に報告とかあるんだろ?」
「ああ、忘れとったわ」
「先に俺に会いに来てどうするんだよ」
 スペインに引っ張り起こされながらロマーノは笑った。悪い気はしなかったが、優先する価値は自身にはないというのは正直な思いだった。


   ***


「ロマーノまだ起きとる?」
「起きてるけど寝てる」
「入ってもええ?」
 ノックの音をベッドの中で聞いたロマーノは、ぬくもった布団から出たくなくて、首だけ起こして返事した。使用人同士で夕食を取ったから、スペインには昼以来会っていない。
 ロマーノが寝る時間というだけで遅い時間というわけではないのに、スペインは音をさせないようそっとドアを開けた。
「何か用か?」
「うん、大した用じゃないねんけどな。あ、寝ててええよ」
 起きようとしたロマーノを押し留めて、スペインは小さな缶を取り出し開けて見せた。
「……軟膏?」
「うん。やっぱり痛そうやし、寝る前に塗るだけでもましになるかなと思って」
 ロマーノが言われるままに手を出すと、スペインは寒くないようにと両手で包み込むようにして薬を塗り込んだ。体温で温められた薬剤から仄かな香りが漂う。
「ロマーノこの匂い好き?」
「薬臭いのは嫌いだけど、これは嫌いじゃない」
「気に入ってくれてよかった。薬を延ばすのに香油使ってるねんて」
 塗り終えると、スペインはロマーノの手を布団の中にしまった。しばらく名残惜しそうにシーツの下で手を握っていたが、ロマーノと目が合うと、目を泳がせながら放した。
「……いつまで、いられるんだ?」
「知ってたん?」
「夕飯の前にお前の上司が話してたのを聞いた。その話をしにきたんじゃないのか?」
「……ん、またすぐに会われへんようなるって言うたらロマーノ怒るやろと思って、ちょっと言いづらかってん。俺も考えたくないし。知ってたんやな」
 様子がおかしいこと自体よりも、目に見えて戸惑っているくせに、本人は平常通りにできているつもりなことの方がおかしかったが、ロマーノは言わなかった。
「子供じゃないって言ってるだろ」
「俺の方が子供なんかなあ。ロマーノが案外ひとりでも平気そうでちょっと寂しかった。昼間も泣き止んだらけろっとしてたし」
「だったら甘やかしてやろうか」
「……ええのん?」
 ふざけて言ったロマーノは、本当にスペインが抱きついてきて目を白黒させた。胸の上に伏せられた頭をぎこちなく撫でる。
「おい、スペイン、大丈夫か? お前さっきからおかしいぞ?」
「……最近ゆっくり寝てなかったから」
「疲れてるんなら寝ろよ」
「興奮してて寝られへん。……でもロマーノが添い寝してくれるんなら、今から寝てもええかな」
「してやるから寝ろ。俺まで調子狂うじゃねーか」
 顔を上げたスペインは、さっきよりもくたびれて見えた。ロマーノは体を横へずらしてスペインのために場所を作ると、布団を持ち上げ入るよう促した。
「ごめん、準備してくる。服着替えんと」
「その服脱いだら問題ないだろ」
「……ううん、寝巻き着てくるわ。先に寝ててもええから」
 スペインはふらりと立ち上がると、空気の抜けるような軽い音を立ててドアを閉めた。

 気配が完全に消えてから、ロマーノはスペインが置いて行った軟膏の缶に手を伸ばした。ひんやりと冷たくなっている缶を握る。
「……寂しいから行くなって言ったら、ずっといてくれるのかよ」