注意事項
ロマーノが遊女ですが、性別は男のままです。つまり女装です。
オリジナルキャラ(店の主人、客、小僧)を含みます。
時代やシステムの混合・誤りには目をつぶってください。

 ロマーノは、薄い月明かりだけが頼りの暗がりで、手探りで鍵を探していた。闇の中に手を入れ続けなければならない不安と、不寝番に見つかるかもしれないという焦燥が、見えない手となって首を絞めつけてくる。
 盗むのではなく借りるだけ。逃げるのではなく外に出るだけ。
 くぐり戸の鍵と自由――その二つを手に入れられるのは、ほんの僅かな時間で構わないのだ。
「何か、お探しかな?」
 不意に響いた声に、心臓が大きく跳ねた。
「こうも暗くては探しにくかろうに」
 石と金を擦り合わせる音を追うように灯った明かりはいかにも好々爺といった風情の老人の姿を浮かび上がらせたが、ロマーノの目に映っていたのは、光に照らし出されてもなお暗い未来だった。


  ◇


 二度寝できないほど冴えてしまった目で見ると、見飽きた庭もまた違った風に見えた。縁側に腰掛けて庭木の紅椿を眺めていたロマーノは、蝶番が軋む音に視線をそちらへ向けた。
「あれ、こんな時間に庭に出てるなんて珍しいな」
 内と外とを隔てるくぐり戸から入ってきた若い男は、ロマーノの姿を見つけると意外そうにした。
「なんだ、お前かよ、スペイン」
「おはようさん。そんながっかりした声出さんといてぇや」
 声変わりする前のことだから、五年以上前だろうか。庭で気に入りの歌を歌っているところに突然現れたのがスペインだった。歌い終わってさあ部屋に戻ろうとした時に、いきなり抱き締められ頭を撫でてきたのだ。「かわええ」とか何とか言いながら。勢い任せの抱擁が苦しいやら、初めて見る聞きなれない訛りの男が怖いやらで、大騒ぎした記憶がある。
 後で本人から聞いた話によると、あれは奉公先の旦那の意向で挨拶回りさせられていたところだったらしい。生活している時間帯が違うからめったに顔を合わせることはないが、それでも十年もあれば遠い親戚よりも遥かによく会っている。もっとも「親戚」というのは物の例えで、父親はもちろん母親の顔すら知らないロマーノは、親戚なんて存在は物語にしか知らなかったが。
「なあロマーノ、聞いてた?」
 何を、と問いかける間もなく、スペインはロマーノの表情から聞いていなかったことを悟ったらしい。苦笑いした後、声を低くして言った。
「言わんほうがええのかも知れへんけどな、海を渡りたいねん」
「……お前、何言ってるんだ?」
 驚きを通り越して心底心配そうな顔をしたロマーノを見たスペインは仕方なさそうに笑った。
「忘れてええよ。言うておきたかっただけやから」


 忘れろと言われたからではないが、スペインの気が違えたかと思うような発言を、ロマーノは翌日の日暮れには忘れてしまっていた。貧乏暇なしという言葉通り日々の生活は本当に忙しかったし、この世界でまっとうに暮らしていくには他人の事情に深く立ち入らないことが最良だと知っていたから、記憶に残るほど考えなかったのだ。


 庭の紫陽花が色褪せた頃、うっかり早起きしてしまったロマーノは、何をするでもなく窓から庭を眺めていた。風があるし、からりと晴れているおかげでそう暑くも感じない。無意識のうちに木戸を見ていることに気付くと、誰に見られたわけでもないのにバツが悪そうな顔になった。
 その日、木戸を押し開けて入って来たのはスペインではなく、使い走り然とした少年だった。この妓楼との取り引きは数年前からスペイン一人に任されていると聞いていたのだが、変わったのだろうか。別の店の使いかもしれないと考えつつも、奇妙な胸騒ぎに任せて、ロマーノは膝を起こした。
 見世の者に見られると色々と面倒だから、少年の向かった先である調理場へは向かわずに、くぐり戸が見える位置で立ち止まる。少年が戻るまでのが長く感じられた。
「スペインはどうしたんだ?」
 振り向いた少年は声の主が女郎姿であることに驚いたらしく目を丸くしたが、すぐに好奇心を帯びた瞳に変わった。悪意はないが遠慮もない視線に居心地の悪さを感じながらも、ロマーノは相手が答えるのを待った。
 からかいを含んだ嘆声を吐き出した少年は、一転して真面目な顔を作ると、スペインが臥せっているということを告げた。


 灯芯はとっくに油に沈んでいて、情交の余韻も闇に散ってしまっている。隣に寝ている客をちらりと見ても、形なく寝入ってしまって鼾が聞こえるのみだ。
 今朝、少年に問い迫っても仔細な情報は得られなかった。病のことも感染るといけないから離れに寝かされていると聞いただけで、実際に顔を合わせて具合を見たのではないらしい。だがそれが始まって既に十日が過ぎようとしているということだから、軽い病気ではないのは嫌が応にも分かってしまう。
 可愛がってくれていた姉女郎が病に倒れて帰らぬ人となったのは何時のことだったか。もう顔も思い出せない。思い出そうとした瞼の裏に、最後に見たスペインの少し寂しげな笑顔が映った。


 誰かに会う為に外へ出たいと思ったのは、これが初めてで――最後だった。


 痛む背中を庇いながらロマーノは畳にへたりこんで頭を壁に預けた。打ち鳴らした直後の鐘を頭から被せられたように耳の中で大音が鳴り響いている。何度瞬きしても視界が冴えない。恐る恐る手を背に回すと、露出した肉に触れたらしく鋭い痛みが走った。
 傷が癒えるまでは客に背を見せられそうにない。唇を自嘲に歪める。
 漏れそうになる泣き声を抑えることが、なけなしの矜持を保つ唯一の方法だった。


  ◇


 夜のうちに降り始めたらしい雪は、正午を回る頃には雨に変わっていた。ぬかるみに足を入れないよう気を使いながら路を往く。背中の傷が癒えるまでの時間と、巡った季節を数えている自分に気が付いて、ロマーノは物憂い溜息をついた。あの日から、忘れ方を忘れてしまったのだ。

 呼ばれた座敷でいつもの口上を述べて微笑を浮かべて、伏せた顔を上げて客へ目を向けた。
 初めて来た客は、初めて見る顔ではなかった。
「え……」
「久しぶり、やな」
 少し照れくさそうにしたスペインは、少しくたびれた顔をしている気もするが、最後に会った時と何ら変わらない姿で、畳の上に座していた。
「スペイン?」
「うん」
「病気はもう、いいのか?」
「当たり前やんか。どれだけ経ったと思ってるん」
「ならどうしてずっと来ないんだよ!」
 心配していたとは言えなくて、来るのを待っていたのになんてもっと言えなくて、けれど黙っていることもできなかった。
「俺の受け持ちの店が変わってるんや。今は全然違うとこ相手に回ってる。知らせたかったけど、病気治って今日から仕事再開やって日に言われてなー。寝込む前やったらちゃんと言ってたで」
 たぶん、いや絶対に、楼主の手が回されていると確信した。自分が打擲されているのを眺める楼主の視線の異様さを思い出して、ぞわりと背中の皮膚が粟立つ。参ったわ、と笑うスペインの様子から、スペイン自身には何もなかったし何も知らされていないらしいことを察して、胸を撫で下ろす。
「情けないけど、お金貯めるのに時間掛かってなあ。やっと、ようやっと会いに来れた」
「バカだな、お前」
「せやな」
「ほんとにバカだ。俺なんかに会っても、良いことなんて全然ないのに」
「でもどうしてもロマーノに伝えたい話があったんや。俺、年明けたら異国へ行けることになった」
 あともう少し話したら泣いてしまう。そう思って瞬きを繰り返したロマーノは、目を見張った。
「……お前、何言ってるんだ?」
 スペインの言う『異国』が、この国と同じように筆を使って物を書き、箸を使って物を食べる大陸の隣国などではないことは明らかだった。
「前に言うた時も同じこと言われたなー。あの時は忘れてええって言うたけど、今度は忘れて欲しくないねん。覚えといて。帰ってきたら、ロマーノを身請けしたるから、それまで待ったって欲しい」
「嫌だ。もう二度とお前なんか待たねー」
「…………やっぱり俺の自己満足やんな。一緒に暮らせたらええなって――」
「俺を呼ぶだけに三年掛かる奴なんか待ってたら死んじまうじゃねえか。何しに行くのか知らねーけど、お前が帰ってくる前に年季明けさせて港まで迎えに行ってやるから、絶対に生きて帰って来い」
「それって、」
「今日はもう働きたくないから朝までいろよ」

 部屋の外も内も、雨は止みそうにない。