窓の外で、仕事を放棄したロマーノが女の子と談笑している。窓を開けて叱るべきか否かに考えを巡らせたスペインは、彼女を見つめる彼の眼の和やかさに、カーテンを引いて視界を遮ることを選んだ。家に来たときよりも随分と高くなった背と、子供らしいまろやかさは失ったものの掌に柔らかく馴染むだろう頬のライン。じっくり見つめようものならすぐさま頭突きが飛んでくるだろう彼の輪郭を正確に描き出せるのは、毎日顔を合わせているからというわけではないととっくに気付いていた。


 曇天で一日の光度が大差ない日でさえ、目覚ましなどかけなくとも午睡から覚める時間を誤ることはなかった。百年単位で数えて片手では足りない長さの時間というのはもはや歴史だ。スペインは体から離せばすぐに温度を失う薄いシーツを片手でまとめて、靴を引っ掛けた。
 余程のことがない限り日常的に昼食を自宅で摂れるようになったのは忙しさがそのまま豊かさに繋がる時代が終わってからで、その時にはもう自分の求めていたものは手に入らなくなっていた。好きだと伝え、親分子分だった頃では有り得ない口付けをしその先を共にしても、ロマーノの全てを自分の手の内に収めることはできない。人の関係としては当然かもしれないが物足りない。
 物思うことに夢中になりそうになり、スペインは自分らしくないと軽く頭を振った。懐古することは不快ではないが、磨耗する心力に対して得られるものが少なすぎるのだ。今日はこれ以上夢を見るのはよくない、睡魔に耐えられなくなるまで仕事に打ち込んで眠ろう。夜寝の短い自国の習慣を幸いに思いながら、上着を手に取った。

 日没と同時に終えられる外の仕事の方が性に合っている。同じ室内の単純作業でも機械的に完成させればいい内職とは違ってどうも苦手だと思いつつ、微妙に一枚一枚異なる文書に目を通しサインをする。刷られた文字との距離感が怪しくなってきた頃、ノッカーが扉を叩く音が聞こえた。来訪者の予定がないとなると応じてもどうせ雑務が増えるだけだ。居留守を決め込むことにして残りの書類との格闘を再開しようとしたが、音は一向に止まない。借金の取立てでもあるまいに。
「はーい、どちらさ……ロマーノ?」
 不機嫌な声を隠すことを打っちゃって出たスペインは、目に映った予期せぬ訪問者に目を瞬かせた。ポーチライトの光にシャドーストライプが淡く浮かぶスーツに、きっちりと締められたネクタイ。シャツの白さに映える濃い赤色の生地に織り出された柄には彼らしさが見て取れるが、それでも遊びに来た格好には到底見えない。
「泊めろ。あと飯」
「え、泊まるん? 今からうちに? どないしよ、ロマーノの部屋の時計もう動いてないねん。行って巻いてこんと」
 ロマーノが出て行った時から捻子を巻くのをやめた時計のことを思い出して、寝こけている時計を働かせるべく家の中に駆け戻ろうとしたが、肩に手を掛けられ引き戻され、顔の前に左手首をずいと出される。抱きとめられたまま、黒い革のベルトに繋がれたレッドゴールドのケースの中で一秒毎に角度を変える細い針を目で追う。
「落ち着けよ。今何時だ?」
「……九時十二分」
 体を離すときに鼻を掠めた女物の香水と酒のにおい。わざわざ仕事帰りに訪ねてきたのは何かの当てつけなのではないかと表情を硬くするスペインなど目に入らないように、ロマーノは共に暮らしたときと変わらない様子で再度食事を要求した。

 食事を終えたものの仕事に戻る気も起きず、消去法で眠ってしまうことにしたスペインは、部屋を用意しようとしてロマーノが使っていた部屋は彼が個人的に訪れることなどなかったせいで、もう一日を過ごすような部屋としては使っていないことを思い出した。
「ごめんロマーノ、片付けるからちょっと待っててくれへん?」
「一晩だけだしお前の部屋でいいだろ」
 何のことないように言われ、スペインはロマーノの日ごろの宿の取り方を想像して、彼が他者に見せるような好意のまなざしを向けられたことがないという不安に追い討ちが掛かる。寝室に向かう足音の間隔もかつて聞いたものより広くなり、もう自分と変わらない。
「なあ、なんで俺には笑ってくれへんの?」
「は? 何だよ突然」
 ベッドに腰掛けたまま動けないスペインを尻目に、ロマーノはムードも何もなく手早く服を脱ぐ。ベッドに潜り込む気配を背に感じながらスペインは虚空を見上げた。
「ロマーノ、俺に笑いかけてくれたことってないやん」
「……お前に媚売ってどうなるんだよ」
「そりゃ、利益はないと思うけ、わっ!?」
 スペインは背後から回ってきた手に股間を掴まれ、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「知ってると思うけど、俺は女が好きで、お前は男だ」
 そうだよな、とロマーノは軽く手を数回握って確かめ、続けた。
「俺は野郎に愛想良くする趣味はない。スペインは、笑顔を振りまいてなくても器用じゃなくてもいいって言っただろ。忘れたのか?」
「忘れてないけど」
 ロマーノに想いを告げたときに、重大な取り引きでもするかのように眉を寄せたまま聞いて、本当に自分でいいのかとか後悔しないかとかを念押ししてきた様はよく覚えている。場数はそこそこに踏んでいるが、徹底して表情を崩さなかった相手は初めてだったから、忘れようもない。
「じゃあ文句言うなよ。……言われても、困るんだよ」
 腹の前で祈るように組まれた手に、スペインは自らの手を重ねた。忘れてはいなかったけれど、忘れていた。ロマーノはどうしようもなく不器用なのだった。食事もせずに酒だけ飲んで、香水の匂いが移る距離に女性がいたのに自分の家に訪ねてくる時点で、気付いてやるべきだった。
「ごめん、ちょっと疑ってた」
「好きでもない男に抱かれるわけないだろ、ちくしょう」
「そうやな」
「せっかく一緒に飯食ってるのに機嫌悪そうだったし」
「ごめんなあ、でも今からご機嫌で張り切るから許したって。な?」
 恋人が裸で隣に寝ていて、股間をまさぐられて、互いの気持ちを確認した。順序は多少前後したが、これで何もせずにおやすみなさいなんて、ロマーノの駄目押しが無駄になるではないか。スペインはすっきりしたけどすっきりしない気持ちを払拭するべく、もう一仕事頑張ることにした。
「……満足させなかったら怒るからな」
「もちろんフルコースでばっちりやるで!」
 互いの仕事疲れはこの際忘れようと、本日一度目のキスをした。