上司の番号や気に入りの店の番号も記してある電話帳はそこそこの厚みがあるのに、何度めくっても同じ場所で手を止めてしまう。開き癖でも付いているんじゃないかと疑いつつ、ロマーノはそこだけスポットライトを当てられているように目を引く名前を小さく呼んでみて、耳に聞こえた返事にバッと振り向いた。家には自分一人しかいないことを思い出して顔が熱くなる。
「……会いたい」
 用事どころか話題すらなくても一緒にいられた頃の自分に臆病者めと恨み言を呟くと、電話一つ掛けられずに悶々としている今の自分に跳ね返ってきた。溜息でも吐こうと息を吸った途端にけたたましく鳴った電話のベルに、心臓が跳ね上がった。

 電話口の男はスペイン宅にすぐに来るよう言った。なぜ本人からではないのか、何かあったのかと聞いても、機械のように言付かっただけだからと繰り返すだけだった。
 憤りながらロマーノは走った。政情にしろ経済にしろ、情勢不安の種となるようなニュースは何一つ届いていなかった。胸がきりきりと痛むのはろくに呼吸ができていないせいなのか、それとも虫の知らせなのか判らない。
 指定されたとおりにスペインの家の裏手に回る。見慣れない小屋。
「無事かスペインッ!」
 肺に流れ込んでくる空気が焼けるように熱い……いや、暑い。
「やっと来てくれた……」
 横から聞こえた弱弱しい声に、スペインがすぐ脇の壁のベンチに座っていることに気付く。もうもうと立ち上る蒸気の中、タオル一枚腰に巻いただけで燃え尽きたボクサーよろしく脱力している。
「……何やってるんだ」
「ええからこっち来て」
 靴と靴下を脱いで上がると、スペインはもっとこっち、と手を伸ばした。いくらサウナが健康にいいとはいえ明らかにやりすぎているスペインを一刻も早く連れ出したいロマーノは、素直に従うふりをして近づくと、スペインの脇の下に腕を入れて無理やり引き起こした。
「死にたいのかよちくしょう!」
「あ……ちょっと涼しいかも」
 至近距離で、熱にぼうとなった鮮やかな緑がゆるやかに弧を描いた。どきりとしたロマーノの意を介さずスペインは自由な方の腕をロマーノの首に回し、体を密着させた。
「やっぱり暑いかな。なあロマ」
 火事場のなんとやらで、ロマーノはスペインを投げ飛ばした。
「いたたた。もー、何やのんな」
「それはこっちの台詞だ!」
 外開きだったおかげで扉の破壊は免れたものの、ロマーノの心はささくれ立っていた。
 とんでもない体調不良か、それか軟禁されでもして偶然通った一般人に電話を掛けさせたのかと、想像力の限りに心配したというのに。
「だってくっついた方が涼しいんちゃうかって思ってんもん」
 国際ニュースで南半球のどこぞの国の気温が四十度を越えたと聞いて、体温の方が低いのならと思い立ったと言う。半年前なら自分のところも四十度越えを記録していたくせに好景気に任せてわざわざサウナ小屋を建てて確かめることにも腹が立つし、思わせぶりな電話を掛けさせて実験に付き合わせたことにも腹が立つ。何よりも、取るものも取り敢えず駆けつけてしまった自分のことが一番やるせなかった。

 シャワーを浴びてすっかり元通りになったスペインは、家に戻り冷蔵庫から出した水をロマーノに注いで渡しながら、瓶の残りに直接口をつけ飲み干した。
「お詫びにご馳走したるから機嫌なおしたって?」
「ほんとか?」
「ロマーノに嘘吐かへんよ」
 そういえば約束はいつも守ってくれた気がする。スペインの手料理は長らく食べていないが、不味いものを食べさせられたことはないし、そもそもロマーノ自身の味覚を作ったのはスペインのようなものだから合わないはずはない。
「それじゃあそれでいい」
「ロマーノはその格好で出られるよな。俺ちゃんと着てくるわ」
「え? スペインが作るんじゃないのか?」
「外食やで。夏前に行った店がめっちゃおいしかってんよ」
「……スペインの料理より?」
「マンマの料理よりおいしくないと認めないってやつ? もー、俺はロマーノのオカンとちゃうで」
「誰がそんなこと言ったよ!?」
「俺の料理が基準となるとロマーノの彼女は大変やなあ」
「そうじゃなくてっ、俺はお前と二人だけで食べたいんだよ!」
 どうして肝心な部分を言ってしまえないのかとロマーノは歯を噛んだ。粘るロマーノに、スペインの表情に変化が見えた。わずかに眉を寄せて、言いにくそうに口を開く。
「たまには自分で作ったもん以外が食いたいねん」

 折衷案でロマーノが作った料理を食べ、腹ごなしの片づけを終えてそのままシエスタ。隣で眠ることにどぎまぎする心に昔は当たり前だったのだからと言い聞かせて、毛布に包まる。頭がどうかなりそうだからわざと端に寄ったのに、スペインに引き寄せられた。
「狭いやろ?」
 ロマーノはシャツ越しに伝わる体温を肌に感じながら、触れるだけで想いが伝わればいいのと考えた。それならここまでもどかしい思いをせずに済むし、スペインの気持ちもはっきりするというのに。
「それにしてもさっきのロマーノは情熱的やったな」
「……そっか、よかったな」
「うん、さすが俺の子分や」
 期待する間も与えずにスペインは言い放った。ロマーノは身を起こす。
「子分って何だよ、子分って! お前んち出て何年経ったと思ってんだ! いい加減一人の」
「ごめん、『元』やったな。すっかり大きなって」
 スペインは皆まで聞かずに保護者モードに入った。ロマーノはベッドに突っ伏した。自分の体温を素直に受け取ってくれる物言わぬ家具がいとしく思えてくる。
「いいからさっさと寝ろよ」
 眠たげな生返事とともに頭を撫でられ、その腕がそのまま腹に回される。いつか、早ければ今日の夕方にでも、この腕の意味を変えてしまおう。眠気を誘う心地よい温度では物足りないのだ。