「兄ちゃんちが見たいな。ほら、今日はいい天気らしいしさ!」
「男は有料だぞ」
「う……お昼おごるよ」
「リクエストは?」
「え? あ、兄ちゃんのおすすめなとこ!」
 一週間前、ヴェネチアーノが遊びに行きたいと電話した時、ロマーノの応答はつっけんどんだったが来ても構わないと了承した。昨日、ロマーノは家の前で帰りを待っていたヴェネチアーノと会った時には舌打ちまでしたが、家の鍵を開けて招き入れてはくれた。そして今朝、ラジオの天気予報に励まされて案内を頼むと、昼飯をおごる約束をさせながらもロマーノは腰を上げた。


「兄ちゃんどこ行っちゃったんだろう……」
 石垣に座って金色の光が灯る海を眺めていたヴェネチアーノは肩を落とした。
 破顔するヴェネチアーノに釣られるように漏れるロマーノの笑顔は作り笑いには見えなかったが、話しかけることなく顔を盗み見た時には、考え込むような表情を見せていた。
 やがて言葉数が減り早足になったかと思うと、三叉路で団体客と擦れ違った時に見失った。
 付近を探しても見つからず、次にロマーノが行きそうな場所に向かえば会えるに違いないという期待も裏切られた。刻一刻と降下していく太陽が怖くて、疲れた体を引きずって遮る物のない場所を目指していたのだが、北イタリアでならば容易に分かる現在地も、南イタリアだと他国よりはまだマシという程度で慣れた旅客とそう変わらない。
 自分が今いるのがどこなのかも、兄がどこにいるのかも分からず、肌寒さに身を震わせたヴェネチアーノは、はぐれた末の一人ぼっちは最初から一人でいるのよりずっと違って寂しいと、狭い石垣の上で膝を抱えた。

「ヴェネチアーノ!」
 心臓が飛び出そうなくらい大きな声で名前を呼ばれ、石垣から転げ落ちそうになった。
「兄ちゃん!?」
「何で勝手にどっか行くんだよ!」
 振り返るとロマーノがひどく怒った顔で仁王立ちしていた。走ってきたのか、風の緩い日なのに髪がぐしゃぐしゃに乱れている。
「に、兄ちゃんが先々行ったんでしょ!」
「お前がトロいんだよ! 探したんだぞ!」
「俺だって探したよ!」
「お前が行きそうなとこ全部!!」「兄ちゃんが行きそうなとこ全部!!」
 きれいにハモった叫び声。息を継ごうと間を開けて、二人は顔を見合わせる。
「……なんだよ、だからか」
「会えないわけだ……」
 ロマーノは肩を上下させて息を整えていたかと思うと、地面にへたり込んでしまった。
「兄ちゃん大丈夫!?」
「疲れた」
 跳ぶようにして傍に寄ったヴェネチアーノは圧し掛かるように抱きつかれ、ロマーノの重みを支えきれず座り込んだ。間近に聞こえる呼吸に違和感を覚え訊ねる。
「ひょっとして泣いてる?」
「っなわけあるか、ちくしょー」
 力の強まった両腕を、ヴェネチアーノは「苦しいよ」と言いながら大人しくされるままにしている。震える肩をそれ以上追及しようとはしなかった。

「兄ちゃんと俺って違うとこばっかりだね」
 ロマーノは夜景と呼ぶには慎ましすぎる明かりを見下ろしながら少し掠れた声で同意した。それきり続かない会話に、ヴェネチアーノは予てからの希望を告げる。
「俺ね、兄ちゃんが気に入っているジェラテリアとか、美人な子がいるバールとかを教えて欲しいな」
 好きな場所は枚挙に暇がなく一日ではとても見切れないほどだから、ロマーノに案内を頼まなくとも一人で見て回ることは容易だった。観光よりも何よりも、ロマーノの個人的な好みを知りたかった。
「ジェラート屋はともかく、あとのは教えてやるわけないだろ」
「ええー、ずるっこー」
 拗ねて見せたヴェネチアーノとロマーノはようやく目を合わせた。
「……俺がこっちに来るの嫌じゃなかった?」
「どうせ分からないくせに人の顔色窺うんじゃねーよ」
 ぶっきらぼうに言うと、ロマーノは踵を返す。また置いていかれては堪らないと、ヴェネチアーノはロマーノの手を掴んだ。振り向いたロマーノは小さな声で何か言うと、見逃してしまいそうなほど少しの間、嬉しそうに目を細めた。
「なに?」
「何でもねーよ。早く帰るぞ」
 聞き返したヴェネチアーノからぷいと顔を背けて足を速める。ロマーノの声は話を断ち切る鋭利なものだったが、握り返す手は温かく柔らかだった。



 郵便受けから手紙を取り出したヴェネチアーノは、珍しい差出人に目を丸くした。
「兄ちゃんからだ」
 わざわざ郵便で届けられた飾り気のない封筒。薄っぺらなのに重みがあるそれを軽く振ると、中身はカサコソ移動した。気になってつい、家に入る前に封を開けた。
「鍵……?」
 掌にぽとりと落ちたのは何の変哲もない鍵。包みを逆さにしても、手紙などが入っている様子もない。見ただけで分かるはずないのに、どこのだろうと裏表を見たりぎざみに触れてみたりする。顔を上げると、開けっ放しのドアが目に入った。ロマーノの家に自分の家の鍵を忘れて帰ったわけではなさそうだと、ヴェネチアーノは可能性を一つ消去した。
 手紙が引っかかってるんじゃいないかと中を覗き込んで、小さく声を上げる。封筒の正体は、たった一行「いつでも来い」と走り書きされた便せんだった。