ハニートラップ

「甚壱さん、起きてください」
 起きている。蘭太の声を聞いた甚壱はそう思った。
 いや、起きてはいない。眠っていないというだけで、活動しているとはとても言えない。考え直した一呼吸の間だけ、意識が覚醒する。たった一呼吸の間だ。そこからは息継ぎを終えて水に潜るように、再び眠りに落ちていく。
 遠慮がちに肩に置かれた手に、ゆさゆさと揺さぶられる。
「甚壱さん!」
 控えめながらも語気を強めた呼び声。
 頭蓋骨の中まで枕の詰め物に侵食されたような面持ちで、甚壱は目を開けた。覗き込んでくる蘭太を寝起きの不機嫌さ丸出しの顔で見るが、蘭太は動じない。甚壱とは真逆に、嬉しそうな顔をしている。
 甚壱が起き上がれるように身を引いた蘭太は、朗らかに言った。
「そんな恨みがましい顔をしないでください。起こしてくれと言ったのは甚壱さんですよ」
「……ああ」
 続けて口にしたつもりの「そうだな」の部分は声にならなかった。
 敷き布団に掛け布団、それに枕。寝具一式をいっぺんに、力任せに運んできた蘭太に仮眠を取れと言われて、渋々横になったのだった。
 起き上がった甚壱は、首をゆっくりと左右に傾けた。みしみしと音がする。眠ったのはたったの一時間だというのに、百年間寝ていたように体中が凝り固まっている。このところ机仕事ばかりでろくに外に出られていない。息抜きのはずのトレーニングも、筋肉を落とさないための義務になってきていた。
「はい、甚壱さん」
 蘭太の手にはおしぼりがあった。視線を横にずらすと、木桶と鉄瓶がある。今ここで作ったらしい。受け取らずにいるとパイ投げよろしく顔面にぶつけられる予感がして、甚壱はほこほこと湯気を立てている、絞られた痕跡がそのまま残るおしぼりを受け取った。
 手で持っていても熱いくらいのおしぼりを顔に押し付けて、ぐっと力を入れて拭い取れば、表面上の眠気は薄らいだ。それでも疲れの根本は、頭の芯まで根を張っている。仮眠を取るべきではなかった。かえって疲れた。甚壱は溜め息をついた。
「段々寝起きが悪くなってませんか? 前はもっとすっと起きてたのに」
 甚壱は蘭太におしぼりを返して、仕事を再開すべく立ち上がった。体を反らしても伸び切らない。
「蘭太の気配でいちいち起きていたら俺は寝不足になる」
「なるほど、道理ですね。じゃあ」
「許さん」
「まだ何も言ってませんよ」
「次から別で寝ると言うつもりだろう」
 ことが終われば自分の部屋に戻ろうとする蘭太が、当たり前に甚壱の寝床に留まるようになるまで、かなりの時間と言葉を使った。何もしない時でも抱いて寝たいくらいなのだ。今さら事後の独り寝に耐えられる気がしない。
 甚壱は机の前にある座布団に腰を下ろし、卓上スタンドのスイッチに手を伸ばした。明るくしないと文字が見えないが、光の白さが目に刺さる。甚壱はこれ以上皺が入る余地のない眉間の皺をさらに深く刻んだ。
「流石は甚壱さん、ご明察です」
 甚壱が目をしばたかせる背後で、蘭太は世辞であることをあえて強調した口調で言った。元より怒る気はないが、軽口に反応しようにも、まるで気力が湧かない。甚壱は深呼吸をして、手元に目を落とす代わりに、すっかり空になった湯呑みを見た。ないと分かると無性に茶が飲みたい。集中力はまだ仮眠中だ。
 白湯でもいい。鉄瓶のことを思い出して振り返った甚壱は、
「……おい」
 甚壱が抜けた布団に潜り込んでいる蘭太を見つけた。ごそごそと音がしていたのは、布団を片付けていたのではなかったのか。
 布団からひょこりと首だけを出した蘭太は、思い出したような顔で頭を枕から浮かせると、髪から外したゴムを枕元に置いた。枕元には、いつの間にか袴が畳み置かれている。
「このまま休みます。明るくても平気なので、甚壱さんは引き続き頑張ってください」
「何を――」
「まさかお気付きでないんですか? 今、夜の二時ですよ。昼じゃありません」
「……」
「健気にも眠いのを堪えて待ってたんですよ、甚壱さんの仮眠が終わるのを。仮眠ならしてもいいって言うから、一時間経ったら起こせって言うから。まさか昼だと思ってたなんて。今日の晩ごはん覚えてます?」
 眠たさで苛立っているのか、蘭太の言い方には棘があった。
 惚れた弱みというやつで、甚壱は蘭太にとことん弱い。貧乏くじを引かされても、蘭太の笑顔があれば頑張れると思っているだけに、不機嫌にされると堪える。普段の蘭太の対応が柔らかいから余計に効く。弱り目に祟り目だ。
「すまん」
 蘭太はにっと笑った。怒ったのがふりだったと分かり、甚壱はほっとする。
 名残惜しく思いながら前を向こうとした甚壱の目の端で、蘭太がさらに枕元に物を置いた。やけに鮮やかな色が気になって目を向けると、きちんと畳まれた袴の上に、無造作に畳まれた布切れが載っている。見覚えのある柄――パンツだ。
「……」
 あたりは静まり返っている。深夜だというのはは疑いようもない。昼間に見るのとは違う、今にも眠りに落ちそうなとろんとした目が、枕に頬を擦り寄せながら甚壱を見ている。甚壱は掛け布団に包まれて見えもしない、蘭太の腰のあたりを見る。
「気になります?」
「……いや」
「確かめてもいいですよ?」
 横向きから、うつ伏せに。布団の下で、蘭太は後ろに折り上げた片足をゆらゆらと動かした。甚壱に合わせて仕立てた布団は、蘭太が足で持ち上げても足の先くらいしか出ない。裸足の足先。足袋をいつ脱いだのか、それとも先入観で、最初からはいていなかったのか。
 甚壱はのっそりと腰を上げた。ちらりと卓上スタンドを見て、せめてもの抵抗に電気を消さずに蘭太の元に向かう。ごろんと仰向けになった蘭太が、誘うように両手を差し伸べる。袴をはいてきたくせに、長着は寝間着だったらしい。衿元から覗くのは素肌で、襦袢はもちろん、肌着も着ていない。
「……かかりましたね」
 バチンと電気が走ったような感覚と、全身の筋肉の硬直。驚愕の中で理解した、差し伸べられた蘭太の手の意味。
 術式による拘束は一瞬で解けた。蘭太は甚壱が受け身を取れず、体を痛めることを心配したのだろう。甚壱は蘭太が甚壱を押し倒すために全力を注いだことを、布団に押し付けられながら察した。もちろん受け身は取っている。逆転しようと思えばできる。が、無意味なことだ。蘭太もそれが分かっているから術式を使い続けなかった。
 頭の下に枕がねじ込まれる。甚壱にまたがって、頭の両脇に手をつき、見下ろしてくる蘭太の表情は、自信を湛えたものでありながらどこか眠そうだ。
「甚壱さんの負けです。寝てください」
「していないぞ、そんな約束は」
「今決めました」
 甚壱から降りた蘭太は、跳ね飛ばした掛け布団を引き寄せ甚壱の体にかぶせると、甚壱の腕を勝手に枕にして横になった。甚壱が起き上がるのを防ぐつもりか、甚壱の胸の上に手を乗せる。
 蘭太は点けっぱなしの電気スタンドを気にする素振りを見せたが、起き上がることはなかった。深く息を吸って、吐いて、甚壱の足に足を絡める。子供を寝かしつける時にするように、甚壱の胸をぽんぽんと柔らかく叩く。
「やれそうな人員に声を掛けてあります。明日手分けしてやりましょう」
 それを最初から言えばよかったんじゃないのか。甚壱は口を開こうと思ったが、面倒になってやめた。疲れているし、眠い。多少の明かりは気にならなかった。
 甚壱は体の位置を直しがてら横向きに寝直すと、自分でも蘭太の足を絡め取って、空いた手で蘭太の尻を探った。
 蘭太はパンツをはいていた。

投稿日:2022年8月19日
惚れた弱みで弱い+寝不足で、見え透いた罠に引っかかる話でした。