ふのり
実家に向かう道すがら、通い女中のなつに出会ったのは偶然だった。
女中と言っても杏寿郎が子供の頃からいる媼で、元は藤の花の家紋の家の人だ。鬼殺隊を支えたいと思えど、昼夜を問わず訪れる隊士の世話に無理が出て、寄る年波には勝てないからと畳もうとしていたところを、煉獄家で預かり受けたのが始めだった。
瑠火の死後、奥向きのことを取り仕切れる者がいないから、若い娘は扱いに困ると槇寿郎は女中に暇を出した。野営に備えて一通りができるとはいえ、家政となると些かも足りずその気もない家長と、未だ幼い息子が二人の男所帯。飯こそ買って済ませても、その他のことは積もる一方だった家に、なつの話は渡りに船だった。決まるまでも決まってからも二三のごたつきはあったが、今はこの媼と、気難しい父親のために家事を修めた次子との組み合わせに落ち着いている。
「買い物ですか」
「はい、ちょっとそこまで行ってまいります」
日用の雑品は人が届けるからなつが足を運ぶ必要はなく、食事の支度にしては早い。ふっとよぎった考えに、杏寿郎は弟よりもまだ小さい老婆のために腰をかがめた。
「もしや布海苔ではありませんか」
「まあ」
どうして分かったのかと、皺の中に埋まって黒目しかないように見える瞳が瞬いた。
「実はあれを使ったのは俺なのです。たまには家の手伝いをしようと石鹸のつもりで手を出したのですが、まさか糊とは思いませなんだ。道理で軽いわけです」
「そういえば時々、旦那様の寝巻やお布団が掛かっていることがありますね」
「弟が取り上げるのに苦労するようだから、これは兄たる俺の務めと思って張り切るのですが、この度はご覧の有様で」
面目ない、と頬を掻く杏寿郎になつは微笑んだ。衣替えを終え、洗い張りをするために準備しておいた布海苔が、ネズミが来た様子もないのに減っている、その事情に合点がいったのだ。
「それで旦那様も複雑な顔をなさっていらしたのですね」
「父上もご存知なのですか」
「はい。高価なものではありませんが、常にある買い物でもないですから、念のためお耳に入れました。細かなことを気になさる方ではないと存じておりますが、頓着なさらないからこそ明らかにしておくべきかと」
「……それは」
咎められはしなかったと眉を曇らせる杏寿郎の意を汲んで、なつは首を振った。
「私も覚悟しておりましたが、何も」
「俺が買い足すべきだったのですが、売っている場所が分からなかったのです」
「坊ちゃまがご存知の方が不思議でございますよ」
「後学のために同道してもよろしいか。次は石鹸を使いすぎるやもしれません」
「――というわけで、専用に買ってまいりました」
委細を報告した杏寿郎は、ぬるついたままの手で槇寿郎の膝裏を押さえ直した。
「この見目のおかげで煉獄とバレてしまうので、ツケ払いでよいと言われて困りました。人の遣いということで自費で贖いましたが、度々になるようなら他の手を考えなくてはなりません」
ぐぐと腰を沈めると、布海苔のとろみとは違う柔らかさが身を包む。どこまでも頑なな父の体にこのように柔らかな部分があることが、いつもながら不思議だった。
「お前が妙な気を起こさなければいいだけだろうが!」
「つれないことをおっしゃる。買い足せと仰せになったそうではないですか」
「それは洗濯に……ッ」
餅のつき始めに餅米を潰すように細かく動かすと、槇寿郎は口をつぐんだ。そこは嫌だと顔に出ているが、ならばと訊いてどこがよいと返ってきたことはない。潜めた息を、諦めて漏らすようになるまで動きを繰り返す。
「……どうせ専用に買うなら他にあるだろう」
「は」
ぴたりと動きを止めた杏寿郎は、せめてもの抵抗というようにそっぽを向いた槇寿郎の顔を見る。槇寿郎の目は、煮出した布海苔の汁を入れてきた器を睨んでいる。専用のものと言うと、と杏寿郎は視線を空に浮かせた。
「父上がお嫌かと思っておりました」
「何」
「まぐわうことにしか使えぬものを家に置くのは、父上がお嫌かと」
槇寿郎はぎょっとした顔を杏寿郎に向ける。
「なぜ家に置くのだ」
「御存知の通りいつ時間が空くかが分かりません。常に持ち歩けばよいのですが、不意の事態にあらぬ誤解を招くのは必定。となれば父上のお手元で保管していただくほかありますまい」
「なぜ俺の手元に」
「父上が俺の部屋をそのままにしてくださっているのは承知しておりますが、鬼殺隊に身を置いておりますので、いつ遺品整理という話になるか分からないではありませんか」
「だから鬼殺隊など辞めろと言ったのだ!」
ほとんど口癖のようになっている言葉を聞いて、杏寿郎はカラカラと笑った。
- 投稿日:2021年3月9日