寝る子は巣立つ

 カフェスペースの奥、壁面に据え付けられたカウンターに珍しい姿を見つけて、通り過ぎようとしていたシライは足を止めた。
 昼間ならば休憩や気分転換を兼ねた作業場として活気に満ちているこの場所も、夜に近づくにつれて静けさが幅を利かせだす。施設内の温度は巻戻士たちを万全の状態で送り出せるよう常に一定に保たれていたが、誰もいないというだけで体感温度は一、二度低くなる。
「クロノ」
「おじさん」
「お兄さんだ。どうした、こんなところで」
 任務終了後、次の任務を与えられるまでのインターバルの中に、高負荷のトレーニングが禁止されている期間がある。生憎シライは特級巻戻士を冠していた間、インターバル制度の恩恵にあずかれたことはなかったが、高負荷トレーニング禁止期間の存在は知っていた。
 肉体を追い込むことで精神的な傷から目をそらしても、その先に待つのは破滅以外にない。適切なカウンセリングを受けた結果の休職と、それに伴う慢性的な人手不足。シライに付けられた管理監督者に準ずる役職は、労務部門の小言をかわすための方便で、シライは現場に出る以外の仕事をしたことはなかった。
疲れていないと寝付かれないか?」
「……」
 初任務はつつがなく終わったと聞いている。クロノの手元にあるドリンクは、館内の自動販売機ではなく、外で買ってきたものだ。本部を出て左に進んだ先の角にある店のロゴが入った蓋付きカップ。カップの外見からホットドリンクだと推察できるものの、何を飲んでいるのかまでは分からない。
 平時のクロノの表情に覇気がないのは今に始まったことではないし、自分も人のことは言えない。シライはじっと見てくるクロノの瞳を見つめ返しながら、不調の兆しがないかを探った。精神の強さは贔屓目なしに折り紙付き。それでも、クロノが子供なのだということを忘れる気はなかった。
「別に、いつでも寝られる」
「そうか」
 先に目をそらしたのはクロノの方だった。
 事実として、クロノの寝付きは驚くほどにいい。巻戻士に必要な、後付けで身に付けることが難しい技能だ。クロノの持つそれが生来のものか後天的なものなのかは、巻戻士を目指す前のクロノを知らないシライには分からない。
「何を飲んでいるんだ?」
「コーヒー」
「へえ、大人だな。おれは飲めない」
 本当かという目を向けてきたクロノに、シライは軽く頷いた。
「嘘をつく意味がないだろう。おまえ相手に取りつくろう必要もない」
「おじさん結構抜けてるもんな」
 春の日差しのようにうららかで、悪意のない眼差しだった。あまり見る機会のない和やかな表情に気を取られ、ツッコミが遅れたシライを尻目に、クロノはカップに手を添える。
「ミルクと砂糖が入ってる。なしだとまだ飲めなかった」
 悔しさも何も含まない、課したトレーニングの進捗報告じみた口調だった。
「この時間にコーヒーは眠れなくなるぞ。怖い夢でも見たか?」
「……いい夢だった」
 嘘ではないと言うように、クロノは下手くそな笑顔をシライに向けた。
 夢は記憶のデフラグだという。いい夢と言いつつ眠ることを躊躇うクロノの記憶に、シライには一つしか心当たりがない。
 シライは不得手な自覚のある慰めを口にする代わりに、巣立ったばかりの弟子の頭をひと撫でした。寝る子は育つと言える空気ではない。
 撫でられているクロノは全くうれしそうではなかったが、嫌がられていないことだけは確かだった。

投稿日:2024年4月16日
何がつらいってシライのだじゃれノルマですよ。