はつはる

 ドライヤーのスイッチを切ったクロノは、帰ってきた静寂が嫌なものではなかったことにほっと胸をなでおろした。触って確かめたレモンの髪は、冷風を当てて仕上げたせいで冷たくなっていたが、きちんと根元まで乾かせているようだ。長いとこんなに時間が掛かるのか、と日頃の苦労を想像して感心する。
「終わったぞ。乾かし足りないところはないか?」
 クロノが尋ねると、レモンはしばらく髪を触ってからクロノを振り返った。
「問題ない。乾かしてくれてありがとう」
「こちらこそ、やらせてくれてありがとう。よかったら髪をくくるのもやらせてくれないか? 上手くできると思う。……おれが触っていいヘアゴムがあるなら」
「今日は爆弾じゃない」
 クロノはレモンがポケットから取り出したヘアゴムを受け取ると、手首を通してから、手ぐしでレモンの髪を梳かし始めた。
 クロノはヘアブラシというものを持っていない。ドライヤーは元々部屋にあったものだが、大浴場に行かずにシャワーで済ませる日はあっても、今日まで出番はなかった。幸いレモンの髪は指通りがよく、クロノが望んだ方向に素直に流れる。クロノは普段のレモンの髪型を思い出しながら、髪を二つに分ける。
 備え付けのシャンプーは女性用と男性用で違うのか、乾かしている最中からずっと、レモンの髪からいい匂いがしている。家のシャンプーはトキネが選んでいたから、クロノは自分が普段使っているシャンプーよりも、レモンからしている匂いの方が好きだった。
「クロノは人の髪を乾かすのが好きなの?」
「うーん、好き嫌いというより、やりたくなるときがあるんだ。普段はどっちでもない」
「どうして?」
「……」
 妹の髪を乾かしていたから、たまに人の髪を乾かしたくなる。
 それを聞かせることはレモンの負担にならないだろうか。
 クロノはレモンの髪を編み込みながら考えた。
 クロノはレモンに頼むより先に、脱衣所で一緒になったアカバに頼んで、「なんじゃ急に気持ち悪い」とにべもない反応をされている。
 アカバは時間が掛かることが嫌いなようだから、クロノが乾かしている間に別のことをすれば、時間の有効活用ができる。明確なメリットを提示したはずのプレゼンテーションは、アカバの「髪なんか放っておけば乾くじゃろ」という言葉の前には無力で、クロノもタオルドライで済ませている身なだけに、ドライヤーをした方がいいと食い下がることはできなかった。
 その後一人歩いていたところに、レモンが声を掛けてくれたのだ。開口一番「何かあったの?」と尋ねるレモンの洞察力がいいのか、それとも自分で思っているよりもがっかりした顔をしていたのか。
 人の髪を乾かしたいのだと話すと、レモンは「わたしでいいなら協力する」と言ってくれた。アンドロイドであるレモンの入浴方法が人間と同じではないと知ったのは、髪を洗い終えたレモンがクロノの部屋を訪ねてきてからだ。

『調べた通りに洗ったけど、違ったらごめん。シャンプーは人間用を使ったし、きちんと洗い流したから危険はない』
『普段はどうしてるんだ?』
『わたしの体の中は冷媒が巡っている。人間のように皮膚から体液が分泌されることがないから、汚れない限り洗う必要はない。洗うとしても石けんじゃない』
『冷媒……もしかして温めたらまずいか?』
『問題ない。わたしは火山の噴火に巻き込まれたターゲットを助けに行けるくらい、外部からの熱には強い。……それよりクロノ、早く乾かさないと風邪をひく』
『そうだごめん!』
『冗談。わたしはアンドロイドだから風邪はひかない』

 レモンとはかなり話せるようになったと思う。交流するきっかけとなったヤマダさんの救出ミッションで、レモンがレモンの事情を話してくれたことがクロノはうれしかった。じゃあ、レモンの方はどうだろうか。クロノの話を聞いて、嫌な気持ちにならないだろうか。
「……シライには頼めないの?」
 クロノが無言でいたからか、レモンが違う話題を振ってきた。それで、クロノは少し焦る。うっかりレモンの髪を引っ張ってしまわないよう、意識して丁寧にゴムでくくる。
「前は頼んでた。セットしづらくなるからってあまりさせてくれなかったけど」
「クロノは乾かすのが上手。いつもよりサラサラしている気がする」
「妹のをやってたからな。でも、レモンの髪はいつもきれいだよ」
「ありがとう」
 トキネのことを自然に話せたことに、クロノはほっとした。
 トキネの髪を乾かすのは毎日やっていたわけではない。自分の妹とは思えないくらい人間ができた妹は、クロノが一人でいたくないときに限って、心が読めるかのように「お兄ちゃんやって!」とやってくるのだ。
 今でこそサラサラに仕上げられるが、最初はタンブルウィードのようなぼわぼわした状態にして、トキネを怒らせていた。ブラシを渡されて、直るまでテコでも動かないとばかりに座り込んだトキネの髪を整える。ドライヤーどころか髪を梳かす習慣もなかったクロノは、あれでずいぶん鍛えられた。
 髪を乾かしている間は、ドライヤーがうるさくて聞こえにくいから、一言も話さなくても変じゃない。
 それは口下手な、けれども一人でいることが好きなわけではないクロノにとって、心地のいい時間だった。今もたまに人の髪を乾かしたくなるのは、そういう理由があるのかもしれなかった。
 自覚していなかったけれど、一度気づいてしまえば人選には納得できるものがあった。クロノは、アカバやレモン、シライのことが好きだ。一緒にいて心地がいい。スマホンのことも好きだけれど、スマホンには乾かせる髪がないし、何もなくとも一緒だから今回は入れられない。
「レモンは好きな人とかいるのか?」
 いつかトキネに聞かれたことだ。「お兄ちゃんは好きな人いないの?」と、クラスの女子が話しているのとは違う、まるで近所の大人が尋ねるようなトーンで聞かれた。トキネにはそういうところがある。妹なのに、クロノよりもずっと大人だった。
 トキネが死ぬと分かる前は、劣等感からトキネの優しさをつっぱねてばかりで、トキネはあのときどんな気持ちだったろう、と思い出すたびに後悔に苛まれる。一番苦しくなるのは自分のことばかり考えて嫌な言い方をしてしまったことではなく、けんかすることなく何でもないことを話したり、一緒にゲームをしたりしたときのことを思い出すときだ。夢を見て、起きたときに目の前が真っ暗になったのは一度や二度じゃない。
 けれどクロノはトキネのことを考えるときの、心臓が潰れそうなくらいの痛みが嫌ではなかった。話に聞く「時間とともに悲しみが癒える」というのが、苦しくなるよりずっと怖くて嫌だった。
 もう片方の髪も結んでから、レモンに仕上がりを見せようにも鏡が洗面所にしかないことを思い出す。トイレの方を見たところで、レモンがクロノの方を振り返った。
 無言でじっと見つめられて、クロノは先ほどの質問がかなり立ち入ったものだということに気がついた。髪をくくることと考えごと、目の前の二つに夢中になるあまり忘れていた。レモンは仲間だ。仲間というのは時空警察の一員という意味よりもっと狭い意味合いのものだったが、それでもやはり、組織の人間だということには変わりない。
「ごめん、レモン、おれは本当に知りたいんじゃなくて」
「クロノだよ」
「えっ?」
「わたしはクロノが好き」
 慌てるクロノを遮って、レモンはクロノが胸の前に出している手を掴んで下げさせる。
「クロノは好きな人がいるの?」
「えっ……と」
 レモンの言う「好き」はどういう意味の好きだろうか。クロノが今しがたレモンに尋ねた「好きな人」に含まれる「好き」は、クロノがアカバたちに向けている好きではなく、恋愛感情としての好きだということを頭の中で再確認する。弁解として言った「本当に知りたいわけじゃない」というのは本心で、トキネみたいになりたいと思うあまり、いらない部分まで真似しただけだった。
「……いない。それに、レモンの言う『好き』は、おれが聞いた意味とは違うと思う」
「そうなの?」
 クロノは頷いた。
 もっと考えて話さなければならない。レモンが髪を乾かさせてくれると言うから部屋に招いたが、クッションも何もない床に座らせるわけにはいかず、二人してベッドに座っている。これもたぶんよくない。レモンはレモンで、妹ではなくて、男ではなく女の子なのだ。
「クロノはわたしよりもわたしの気持ちを分かってる。クロノが言うならそうなのかも」
 ベッドを降りたレモンは、ドライヤーのプラグを壁のコンセントから引き抜いた。一つ下のコンセントを使って充電しているスマホンを一瞥してから、ドライヤーのコードを束ねながらクロノの方に戻ってくる。
「わたしには感情がある。クロノが教えてくれた。だから、クロノが言う意味で人を好きになることもあると思う」
「……そうだな。おれ、レモンの言う『好き』は違うって言ったけど、根拠があるわけじゃないんだ。その『好き』はおれもよく分かってない。いきなり否定してごめん」
 クロノは手渡されたドライヤーのコードを受け取って、まだ温かいドライヤー本体とまとめて持つ。ベッドの上であぐらをかいた状態だと、立っているレモンとはいつもより目が合わせやすい。
「構わない。わたしもまだ分かっていないから。……髪、また頼んでもいい?」
「ああ、もちろんだ」
「ありがとう」
 クロノは部屋を出るレモンを見送り、本来の定位置である床に座る。
 一人になった部屋は静かだったが、ドライヤーの熱が残っているかのように温かだった。

投稿日:2024年5月9日
視点人物が湿っぽくなるのは仕様です。クロレモと書いたけどレモクロかもしれない。