あと二年にまけてくれ

 壁に据え付けたモニターの上で、穏やかな曲とともにエンドロールが流れはじめた。
 ぶち上がりのハッピーンドでもなければ、景気づけに飲み直したくなるようなバッドエンドでもない。主人公の人生がこれからも続いていくのだと示唆する、言ってみればありきたりな結末だ。
 だが、悪い映画ではない。アカバが学校で見たというのも頷ける。
 シライはローテーブルの上にある、水滴をまとわりつかせたグラスを見た。映画といえばポップコーンとコーラだ、とアカバが用意したものだ。グラスの中のコーラは、溶け切った氷で淡いグラデーションを描いている。
 組み合わせの良さ自体は分かる。だが、映画の内容を知っているアカバの選択としては、奇妙だと言わざるを得ない。映画はポップコーンとコーラが合う内容ではなく、現にアカバのグラスも大して減っていない。用意してしまったポップコーンを減らすために食べて、塩気で喉が渇くからコーラを飲んだ。そういう減り方だった。

 資料を探すために入った巻戻士本部の図書室で、アカバを見たのが事の起こりだった。
 名作と呼ばれる、古い映画作品ばかりが置かれた棚だ。本部の図書室はあくまで資料がメインで、娯楽品に分類される収蔵品については、公立の図書館とは成り立ちが異なる。つまりは誰かの趣味で置かれたもの。巻戻士は仕事の性質上、外の人間関係を広げにくいから、対面で話せる同好の士がほしければ、本部で布教活動に勤しむしかない。
 シライの出身時代ですらコレクターズアイテムと成り果てていたディスクに、もっと後の時代の生まれであるアカバが、愛着を持っているとは思えない。ディスクが入ったトールケースを手に取り、熱心に見ているアカバの様子を観察するのも気が引けて、シライはアカバに歩み寄った。
「よぉ、珍しいところで会ったな」
「シ、シライさん!? お疲れ様です!」
「おー、お疲れ。思い入れのあるやつか? 感傷に浸る歳じゃねぇだろってのは、干渉しすぎか」
「あの、その、学校で見たやつです。懐かしいと思いました」
 アカバはシライと話すとき、いつも言葉が固くなる。クロノやレモンと話すときの特徴的な語調も、ころころ変わる豊かな表情も、シライの前では封印されがちだ。今のアカバは焦った顔で、トールケースを棚に戻そうとしている。
「それ、一緒に観ねぇか? おれの部屋で」
 誘った理由はまるで見咎められたかのように緊張しているアカバを、どうにか楽にしてやりたかったのが一つ。もう一つはかつて「一番弟子」でもあったアカバの、本当の学生時代に興味が湧いたからだ。
 図書室にも視聴覚室は備わっているが、資料の確認がメイン用途で、映画を一本丸々見るのに向いた場所ではない。幸い、シライの部屋には対応したプレイヤーがあった。クロノが一本立ちしてから使っていないが、捨てた覚えがないからあるはずだ。
「シライさんの部屋……ですか……?」
 アカバのうろたえ方を見たシライは、そこで初めて、自分がアカバを私室に誘うことのまずさに気がついた。
 中学の文化祭で会った面々を前にしていると、まれに記憶と感覚が混線するのだ。たった一日を反芻し続けた副作用だ。レモンがアンドロイドだと知り、子どものアカバを助け、クロノの師匠として過ごした四年間で上書きできたと思っていたが、出会った日の背格好に完全に一致する今の時期、頭の中が均衡を崩す機会は多い。
 アカバにとってのシライは、助けてくれた恩人であり、組織の上司でもある。
「悪ぃ――」
「いいんですか! 一緒に観たいです!」
 忘れてくれ――とシライが言うより先に、アカバは顔を輝かせて承諾した。シライがここでやめにしようと言うのは、遊園地に行けると思っている子どもに、予定がなしになったと言うようなものだ。
「おう、そうか、じゃあ」
 シライはアカバに予定時刻を告げて、帯出の手続きをしてくるというアカバを見送り、当初の目的である資料探しに戻る。資料は無事に見つかったが、その後の仕事は手につかなかった。

 この手の映画にポストクレジットはない。このまま見ていても白い文字が流れていくだけだろう。
 シライはアカバを盗み見た。本当に思い入れのある作品らしく、エンドロールを一心に見つめるアカバの横顔は、モニターの明かりに照らされて別人のように見える。
「アカバ」
「あ、い、いい話でしたね!」
「……」
「つまらんかったですか……?」
「……いいや」
 シライははっきりと首を振った。
 思えば、アカバがじっと映画を見ているイメージがない。シライも口達者な方ではなく、映画の内容としてもべらべらしゃべりながら見られるものではなかったから、退屈していると思われても仕方がない沈黙が続いていた。
「いい映画だったよ。学校で見るには格好の映画だ」
「そ……ですか」
「アカバこそ退屈だったんじゃないか? もっと派手なのが好きだろ」
「いえ、わしは、全然……映画はあんまり見たことがのうて……」
「そうなのか」
 世代の差だろうか。シライは驚いたが、一方で納得できるものもあった。
 アカバは快活で活発な男だったが、直情径行型の人間の常に反して、座学の成績もいい。アカバの若さでここまで剣技が確立できているのは珍しいことで、その裏に血の出るような努力があることは想像に難くない。周囲はアカバがシライに憧れていると言うから妙に思わないかもしれないが、シライは人との関わりがなかったからこそ、剣術や勉学に励む時間を捻出できていたのだ。アカバのように人懐っこい人間が、同じだけの時間を作ろうと思うと、犠牲になるのは娯楽の類だろう。
「すんません、もうちっと気の利いたこと言えたらよかったんですけど……。こういうとき、気付いたこととか感じたこととか、言うもんなんでしょうか。わし、よかったとしか思うてなくて」
 アカバは気まずさをごまかすようにコーラを飲んで、水っぽくてまずいことが丸わかりの顔をして、それでもシライの手前そっとグラスを置くと、水滴で濡れた手をこすり合わせた。それからシライを横目で窺ったが、当のシライがアカバを見ていたから、驚いた顔をして目をそらした。
 いい映画だと言いつつ、心細そうに背中を丸める。もしかするとアカバの学生時代に、映画の内容とは別の、鑑賞にまつわる思い出があるのかもしれない。
「アカバ……キスしていいか?」
「はえ!?」
 かわいいと思った。それだけだ。
 シライの生まれた時代は、アカバの出身時代から三十年ほど遡る。それでも性的同意の必要性は分かっている。夜に部屋で二人きり。いけそうな雰囲気だったから、という言い訳は通じない。
 上司と部下。しかも相手は未成年。シライは体質としてアルコールを受け付けず、毎日正気で過ごしている。今飲んでいるのがコーラではなく酒だったらという「もしも」は万に一つもない。
 だから、シライは同意を取りに行った。
 一か八かではない。勝つ目が出る確率の方が高い賭けだ。
 アカバが自分に向けている憧れは、しっかり計算に入っている。意識的なものではない。その程度の現状把握と計算は、巻戻士ならば意識しなくてもできるものだ。シライは気づいていながらも触れてこなかった「アカバはおれのことが好き」という情報を、ここぞとばかりに利用した。
「なぜじゃ……ですか?」
「おまえがかわいい。この衝動を発散したい」
「!?」
 聞いたくせに、どんな返答をされるか考えていなかったのだろう。アカバは言葉をなくし、答えを聞いたせいで余計に分からなくなった、という顔でシライを見つめている。
 シライが距離を詰めないからか、アカバもシライから距離を取ってはいない。逃げられると追いたくなる。その観点で論ずるならば、アカバのシライへの対処は正しかった。
 だがそれは、アカバがこの先で逃げを選択する場合の有効策だ。
「おれとは嫌か?」
「嫌じゃないです」
 アカバはぶんぶんと首を振った。即答だった。
「じゃあしてもいいか?」
「は、はい」
 シライが隣に座るアカバに向かって身を乗り出すように体を傾けると、アカバはどうしたらいいのか分からないらしく姿勢を正した。
 いっそ腰を引いてくれたほうが押し倒しやすくてよかったが、これはこれでかわいい。シライは愉悦から緩みそうになる表情を微笑みに変えて、アカバの肩に手を伸ばす。初めての邂逅から約十年、作り笑いは上手くなった。
 顔を近づけたところで、アカバがふいと目をそらす。どうしたと聞いてやるつもりでシライが待つと、アカバはちらりとシライを見て、またすぐにそらす。
「……わし、ポップコーン食べてて」
「そんなのおれもだろ。すすぎたいなら待つけど、心配しすぎたって仕方ないぞ」
「いえ! 大丈夫です、やれます!」
いい気負いだ。勢いだからな、こういうのは」
 アカバはぎゅっと目を閉じ、同時にシライの腕をぎゅっと握る。アカバからシライへの接触は珍しい。助けた日のことを思い出して、シライは目を細めた。
 結ばれた唇に唇で触れて、軽く吸う。アカバが気にしたポップコーンの味はしなかった。直前に飲んでいたコーラの風味すらなく、あるのはぬるい体温だけだ。唇はコーラの水分おかげかかさついてはいなかったが、少し荒れていた。手の手入れをしていることは知っている。アカバは特別面倒くさがりなわけではない。剣と関係のないことに無頓着なのだろう。
 シライが唇を離して目を開けると、アカバも薄く目を開き、シライの瞳を確認した。瞬いたアカバの目を見て、シライは泣きだす子どもを連想した。
「わし……わし……」
 案の定と言うべきか、アカバはまるで涙をこらえるように目をつむった。
「嫌だったか?」
 答えを分かっていながらシライが聞くと、アカバは首を横に振った。
「わしはシライさんのことを尊敬してると思っとったんです。でも今ので分かった。わし、シライさんのことが好きじゃ」
 アカバが掴んでいたシライの腕を離したところで、今度はシライがアカバの腕を掴んだ。ようやく引け腰になったアカバは、シライが行動を起こす前に、自由な方の手をシライの胸についた。混乱に揺れる目を、どうにかシライに向ける。
「シライさんはわしのこと、そういう風には好きじゃないじゃろ。構ってもらえるのはうれしいが、諦めがつかんくなる。シライさんを犯罪者にしたくもないし、今日はこれでお暇します」
 言い終わる頃には、アカバの覚悟は形を持ったようだった。シライが傍で見るのに比べれば控えめな、しかし明るい笑みを浮かべる。
 アカバはシライの下から抜け出した。シライに無理強いする気がないと分かっているからか、警戒することなくシライに背を向けると、再生機器からディスクの取り出しを試み始めた。
 ケースはシライの手元にある。この分だと、何もなかったような顔で取りに来るだろう。シライは体を起こして座り直した。酔っているわけではないのだ。正気に戻るのは自分の意志次第だ。
 シライのところに戻ってきたアカバは、シライから受け取ったケースにディスクを収めた。映画を見終わった瞬間から何も変わっていないテーブルを見て、「残りの片付け頼んでもええですか?」と尋ねる。シライは当然頷いた。シライに対しては甲斐甲斐しさのあるアカバの、シライの暴挙に対する精一杯の抗議のようにも思えた。
「お互い酒が飲めんのは難儀ですね。酔ったせいにできん。飲めるようになったらまた来るんで、そんときは覚悟してください」
 見下ろしてくるアカバは、意志を通す気の、目標がしっかりと定まった目をしていた。シライは眩しいような気持ちでアカバを見上げた。
「予告ホームランか。国法遵守だけに」

投稿日:2024年5月26日
この話の治安はアカバの善性によって保たれています。