他人のものさし

シライとモブの肉体関係を匂わせる描写があります。

 そんなバカな話があるか。
 アカバがシライを尊敬してやまないことは周知の事実で、そんな中でもたらされた情報だった。
 曰く、シライは誰とでも寝ると。
 殉職率こそ低いものの、任務となれば常にギリギリの綱渡りを強いられる職場だ。絶対的な強さ、揺るがない強靭な精神に憧れる気持ちは分かる。その強さにあやかれるものならあやかりたい、と思うのも。
 だとしても、そんなバカな話があるか。
 アカバはもう一度思った。
 シライは海に呑まれようとする船からアカバの手を取り救ってくれた人だ。幼い日に目にした雨上がりの空は、宗教画もかくやという神々しさを纏ってアカバの脳裏に焼き付いている。
 だが、そのアカバとて、シライのことを神のごとくに思っているわけではない。間違いなく慕っているし、彼のためなら危険を侵すのも厭わないけれど、信仰とは違う。押し付けがましい理想を抱いていた日も確かにあったけれど、今のアカバはシライが人であることを知っている。シライが人であることも含めて、アカバはシライを好きだった。
「おう、来たか。どうした?」
 事前に連絡を入れたおかげか、シライはアカバが部屋のドアをノックするとすぐに顔を見せた。シライの顔を見た途端に、アカバは廊下を歩いていたときの勢いを失い、冷静さを取り戻した。
 プライベートのさらに内側、繊細な問題だ。考えなしに触れるべきではないだろう。誰とでも肉体関係を持つなんて、そんな噂を立てられていることを本人に知らせること自体よくない。もし自分だったらどういうつもりじゃと一発殴っている。
 今さら、アカバは自分が何をしようとしていたかに気がついた。行動の速さに思考が追いつかない。ここ最近はなかったやらかしで、シライに何と尋ねる気だったのか、切り出し方すら準備できていなかった。シライの部屋を訪ねたのは、勢い任せ以外の何物でもない。公言しているシライへの気持ちを、安直に恋愛感情と結びつけられた不愉快さが、拍車を掛けていたことに今さらになって気が付いた。
「シライさん、わし」
 用件を忘れたことにする。馬鹿みたいな逃げ方だったが、自分が間抜けに思われる方が余程いい。そう思って馬鹿みたいな作り笑いを浮かべたアカバの退路を塞ぐように、シライはアカバの肩を掴んだ。
「忙しいやつだな。せっかく来たんだからちゃちゃっだけでも飲んでけ」

「――別に口止めはしてねぇけど、下世話なネタが望んでねえやつの耳に入るのは問題だな。誰から聞いた? おれから言っとく」
 結局、アカバは訪問の目的を洗いざらいぶちまけてしまった。別に厳しく問い詰められたわけではない。だが、ずばりと切り込むのではなく、雑談に乗せて一手一手を打っていくシライの問いかけを切り抜ける術をアカバは持たなかった。
 何でもないように――事実シライにとっては何でもないことなのだろう――言ったシライは二杯目を薦めてくるが、アカバは一杯目のコーヒーも飲み終わっていない。甘いやつのがよかったか? とシライに聞かれるが、アカバがコーヒーを飲めていない理由そういう理由ではないのだ。シライが噂を否定しなかったことや、心当たりが複数あるらしく情報の出所を特定できないらしいこと。引っ掛かりはあちこちにあって、具体的に何が胸の底をざらつかせているのか、アカバは掴みきれないでいる。
「……別に、シライさんがそういうことせんと思っとる訳じゃないんです。シライさんは大人じゃし、そりゃあ、そういうこともあるじゃろうし」
「親がセックスしたから自分が生まれたって分かってても、わざわざ聞きたくはねーよな」
 アカバの言ったことに同意を示したかったのだろうが、わざと露悪的な言い回しをチョイスしたと思われるシライの物言いに、アカバは口をへの字に曲げる。それを見たシライは悪びれる様子もなく「悪ぃ」と言った。
「品がなかったな。アカバはそういうのが嫌だって言ったとこなのに」
「いえ、気にせんでください」
 アカバは自分がシライの噂話を聞くはめになった理由は分かっている。老婆心というやつだ。
 アカバがシライに寄せている思いは恋ではなかったが、噂話を吹き込んだ人間は恋だと信じている。アカバだって、もし親しい誰かの想い人の行状に不安があると知っていれば、その人はやめておくよう言うかもしれない。生憎アカバは好いた惚れたという情報に疎かったが、自分に対して余計なおせっかいを焼いた人間の気持ちをどうにかして想像しようとする。しかし、試しに思い浮べた「親しい誰か」の顔がクロノだったせいで、想像はすぐさま壁にぶち当たった。
 クロノは言って止まりそうにないのだ。しかも自信満々に「おれなら大丈夫だ!」とアカバを説得し返そうとしてくる。実際にクロノなら大丈夫だろうから、こうなると放っておく他ない。シミュレーションは失敗だった。他人の気持ちを推し量るなんて、慣れないことはするものではない。なんでわしが考えてやらねばならんのじゃ、と不満もぶつけておく。
 アカバは一向に減らないコーヒーに口を付けた。本部のドリンクサーバーの備品と同じ紙コップだ。
 シライが来るもの拒まずの姿勢なのは嫌だが、アカバにはシライの行動に口を出す権利がない。第一、アカバはなぜ自分がシライの行動を嫌だと思うのかを分かっていない。ひょっとしたら「さすがシライさんじゃ!」と言う道もあったのかもしれないのに、検討する間もなく反射的に「嫌じゃ」と思っている。シライ本人が自分の行いについて肯定的な姿勢を見せているにも拘わらずだ。
 進退窮まるアカバを見かねたか、アカバを観察していたシライは傾けていたマグカップを座卓の上に置いて、あぐらをかいた姿勢のまま後ろに手をついた。シライの一挙手一投足に興味があるアカバは、ついシライの方を見る。
 かち合う視線。好奇心を帯びた、けれどもキラキラと表現するには深みのありすぎるシライの眼差し。やけに大きい月を見るような、自分の意思とは無関係に目を吸い寄せられる感覚。
「一回おれとヤッてみるか?」
「は!?」
「案ずるより産むが易しって言うだろ。倦むまで考えるよか、簡単に解決するかもしんねーぞ?」
「そんっ……」
 アカバはあたりに目を走らせる。あまりに普段通りの声量で、憚る様子がまるでない。しかしシライの私室の中、当然ながら自分とシライの他に人はいない。アカバはシライの隣室が誰なのか、今このとき在室しているのかどうかも知らなかった。警戒すべき対象が漠然としすぎている。
 シライの部屋はアカバよりずっと長く本部にいるというのに物が少ない。備え付けではないものは座卓と冷蔵庫くらいで、クロノの部屋ほどではないにしろ、殺風景に寄った小ざっぱりとした部屋だ。おかげで、ベッドの存在感が大きすぎる。
 自分の頭が何を想像しようとしているのかをアカバは知っている。シライの噂を聞かされてからずっと、その領域にだけは踏み込まないよう慎重を期して歩いてきたのだ。具体的な形を持ってしまわないよう、たとえ輪郭を持っても目に入らないように置いたはずの障壁がいつの間にかどけられて、ひとたび意識を向ければ見えてしまう位置にちらついている。
「……っ」
 アカバはぎゅっと目を閉じ、次いで、シライに失礼のないよう目を開けた。シライの目は見られなかった。
「だめじゃ」
「だめ?」
「そういうのは、せん方がいいです」
「そうか? おれはアカバとしてもいいけど」
「わしは……わしは、したくないです」
 不快感の正体。アカバがシライに向けている気持ちを、アカバ自身すら掴みきれていない気持ちを、当て推量した上に乱暴に型にはめられたことへの反発。そして、シライがアカバを他と同じ枠に入れようとしていることへの落胆から、もう一段降りて、シライに特別扱いされたいと思っていた自分に対する自己嫌悪。
「ならいい。無理強いしようってんじゃねーんだ。謝るなよ? どのみち大した話じゃねぇ」
 アカバは喉元まで出掛かっていた「すみません」を奥歯ですり潰して、こくりと頷いた。
「おれとすんの、安心するらしーぜ。賢者タイム中の馬鹿に聞かされた受け売りだけどな」
 シライはひょいとアカバのカップを取り上げた。帰れという意味だろう。アカバも、飲み切れる気はしなかった。
気が変わったら言えよ、気軽にな。笑ったりなんかしねぇから」

 抱く方か、抱かれる方か。頼んでいるのは男か女か。
 漏れなく全員と面識があるような規模の組織だ。悪手でしかない想像を打ち消そうとした努力の成果か、アカバは自分で意外に思うほどすっきりと目覚めた。ベッドの上に座り、ぽかりと欠けた眠っている間の記憶、見なかった夢の端を掴もうと探るが、何も掴めない。
 正直なところ、起き抜けにシライのポスターに向かって詫びる覚悟はあったのだ。シライに対面したせいで、ベッドの中にいるシライの姿という、憧れの人を穢してしまうギリギリのところにまで想像は及んでいた。シライ以外についてなら興味がないと切って捨てることもできたのに、なまじシライのことであるためについ考えてしまった。なんせアカバは入隊後に耳にした、「シライは本部よりも巨大化できるらしい」という与太話の信憑性を真剣に検討したこともある。11時イレブンオクロックによるシライ暗殺計画の阻止を経て、シライ巨大化の噂はシライが本部の建屋を破壊したことに原因あると判明したのだが。
 任務前に会ったシライの態度も今まで通りだった。いや、その前に一度だけ、偶然出会った食堂で、今後の接し方の是非を問うように静かにアカバに視線を向けてきた。そのときアカバは無理矢理に気分を盛り上げて「シライさん! おはようございます!」と言った。その後がシライが出立に立ち会った任務で、そこから本当に今まで通りになった。
 セックスをすることを、大した話じゃないとシライが思っていることを、シライに関係を持ちかけた人間は知っているのだろうか。
 アカバは竹刀を振りながら考える。
 シライは不必要な嘘をつかない。本心では重大なことだと思っていたとして、それをアカバに伏せる理由が思い当たらない。それにアカバですら思い当たる、「シライに縋った人間は、シライが誰とでも寝るからという理由を第一に関係を持ったわけではない」ということに、シライが気付いていないとも思えない。
 アカバがシライに感じている恩義と尊敬の大きさは、シライからアカバに向ける感情と釣り合いは取れていないだろう。それはもう、確実に。それでも問題なく人間関係を続けられるのは、アカバがシライに「シライさん」であること以上を求めていないからだ。
 アカバはシライに特別に見られたいなどとは思っていない。思っていないはずだった。弟子になれなかった時点で諦めはついていたはずで、けれども、今はシライに頼りにされたいと思っている。有象無象と同じにはなるまいと思っている。
「……やっぱり嫌じゃなあ……」
 今回の一件を受けても、アカバの中のシライ像に歪みは生まれなかった。それでも、何となく嫌だという思いは消えない。我慢というか、落とし所を見つけるしかない。これはシライの行状ではなく自分の感情の問題だ。
 シライに望むこと。
 シライに向かって「シライさんに憧れて巻戻士になったんじゃ」と言いたくとも、アカバが巻戻士になった理由は別にある。それはそれとしてシライに「がんばったな」と言われたくはあるが、それでもやはり、アカバは自身がシライの心を手に入れたいというわけではないように思う。
 歩いて行くうちに、ターゲットの姿を視認する。
 今は目の前のことに集中しよう。
 重心を低くしたアカバは、アカバは心を静めるために細く深く息を吸った。

投稿日:2025年4月18日