欲目
「おじさんが守りたいのは法律じゃなくておれだろ! そのおれがいいって言ってるんだからいいだろ!」
「いい訳ねえだろ! んな言い訳が法律相手に通じるかよ!」
買い換えどきを見誤り、すっかり毛の寝たラグの上。クロノの言い分を一理あると思ってしまったシライは、自分に乗りかかっているクロノの肩をぐいと押した。
「何遍言おうと勘弁だからな。巻戻士本部の飯に慣れた舌で官弁なんか食えるかよ」
シライは間髪入れずに反応できた自分を偉いと思った。クロノより一日どころではなく長く人生をやってきたのだ。自分の半分ほどしか生きていない、ようやく尻からタマゴの殻が外れたばかりのひよっこに押し切られる訳にはいかなかった。
「大体しないとは言ってねえ。十八になるまで我慢しろって言ってんだ」
シライが腕をいっぱいに伸ばせば、クロノはシライに触れられなくなる。歴然とした身長差に感謝しながら、シライは「おれは納得してない」と書かれたクロノの顔を、決意を込めて睨み返した。むくれたクロノのつんと尖った唇が可愛い、という感想を腹の奥底まで押し込める。下へ下へと押し込めた邪な感情が、このまま地球の向こう側まで行って、宇宙空間に排出されてくれることを願うばかりだ。
部屋の中央まで引き出した簡易テーブルの上で、シライとクロノ、それぞれ別件のレポート作成。おうちデートと呼ぶには仕事の気配が濃く、けれど見方によっては一緒に試験勉強に励んでいるように見えなくもない。中学時代からの恋心をクロノに引きずり出される形で交際を始めたシライには、刺激が強すぎる状態だった。
キスする距離で見てようやく生えていると気付く短いまつげに、可愛らしさが幼さに依存する顔立ち。街角で十人に聞くまでもなく、クロノが可愛らしく、そしてとんでもなく格好よく見えるのは、どう考えても惚れた欲目だ。現に冷静さを取り戻した頭で見るクロノは、扇情的という言葉とは対極の位置にある、健全ど真ん中の少年だった。そこまで分かっているのに、キスがしたいのだと思われてしまうくらいクロノに見蕩れてしまった自分を、シライは殴りつけてやりたかった。
シライの抵抗に対して為す術もないクロノを見ていると、シライの胸に懐かしさが込み上げる。再会したときクロノは十歳だった。抱き上げて遊ばせるようなことはしたことがなかったが、今のように身長差を盾にするシライを前に、手も足も出なくなっている様子には見覚えがある。
と、クロノが自分の肘に触れたことでシライは思い出した。
手足の長さに刀を足したリーチの差をどうするか。体格差がある相手への対処法の考案を、クロノに課したのはシライだ。
シライは素早くクロノの肩から手を離し、クロノが行動を起こす前に両手を上げる。分かりやすい降参のポーズだ。実際の戦闘で有効打にはなり得なかったが、シライにはこれだけでクロノが止まる公算があった。
果たして、クロノは止まった。
ずるいぞ、という不満をありありと浮かべた目がシライを睨む。どんな手を使ってでも勝てとシライは教えたが、それはあくまで訓練中の話だ。シライのお手上げポーズは訓練の終わりを意味している。
「だからやめろって。おれが捕まるだろ。その代わり十八になったらすげーことしてやるから、楽しみに待ってろ」
「……分かってんじゃねーか、おれが守りたいのは法律じゃなくておまえだよ」
部屋のドアが閉まる音を聞いてから、独り言ちたシライは床に仰向けに倒れ込んだ。頭はラグからはみ出している。クロノを戸口まで送り届けたクロホンが戻るまでの、ほんのわずかな一人の時間だ。
「よく乗り切ったな、シライ!」
「おー、今のは危なかった。見ただろクロホン? クロノがおれの上であんな」
「シライ! 今の映像を確認できるぜ!」
「分かってるよ、よくねえ冗談だ。クロノにそんなつもりは微塵もねーよ」
寝転ぶシライを覗き込むようにして浮かんでいるクロホンの変わらない表情を確かめたシライは、腹に力を入れて起き上がった。
クロノはシライにキスしようとした勢いで乗り上げただけだ。決していやらしいことをしようとした訳ではない。仮にシライが口付けを受け入れていたとしても、恐らく、クロノはそこから先には進めなかっただろう。
「……あいつも十八になりゃ分かるだろ、勘違いだって。クロノから見たおれなんて、おれから見た隊長と変わんねーだろ。そりゃあ、おれだっておじさん呼びはショックだったけどよ」
ショックなのは本当にショックだ。だがシライはクロノが他の呼び方をするのを想像してもしっくりこない自分にも気付いている。試しに頭の中でクロノに自分の下の名前を呼ばせてみるが、非現実的すぎてもはや「御主人様」と同じ領域だ。
「シライはクロノとどうなりたいんだ?」
「その手には引っかからねーぞ、クロホン。誘導した自白は証拠にならねえ。性懲りもなく考えてるのは認めるけどよ」
こういうとき、クロホンはシライの目線より下には降りてこない。物思いに沈む顔を見られない幸いと、顔を上げなければ話せない面倒臭さ。平常時なら気にならないことが気にかかるのは悪い兆候だ。
シライは無意識に握っていた両手を解いて、意識的にゆっくりと呼吸した。
『おじさん、おれと付き合ってくれ!』
『おー、いいぞ。どこにだ?』
シライはクロノからされた告白を頭の中で再生する。こんなベタなすれ違いコントみたいな展開で得た承諾を取っ掛かりにして、真剣交際まで持って行ける推進力の強さは流石クロノだと思う。しかし手放しに賞賛している場合ではないし、どう考えてもシライの選択ミスだ。
悪いことに、シライはこの百万分の一の奇跡、あるいは百万分の九十九万余のありふれたルートが嫌ではない。クロックハンズの束を河原の草みたいにちぎっては投げちぎっては投げできる、巻戻士本部における屈強さでは一二を争うシライも、クロノの誘いに対する抵抗力は全くと言っていいほどにない。
世間体はさておき、中学生のようなプラトニックなお付き合いをする分には法的な問題はないし、シライの心はそれで満足できる。むしろそれこそが、シライが十五歳の頃からずっと夢想していたことだった。だから、クロノと別れるというベストな選択ができないでいる。
「クロノから伝言を預かってるぜ!」
「んだよ、直接言ってきゃいいのに」
呼吸するうちに気持ちが落ち着いたシライは、苦笑しながら再びクロホンを見上げた。ある意味ではシライ以上にシライの対応に慣れているクロホンは、いつも通り何も気にしていないように見える顔でシライと目を合わせた。
「『すごいこと、楽しみにしてる』だってよ!」
上を見ている分、口はぽかんと開きやすい。
そう思って口を閉じようとしたシライは、自分の口が開いていないことに気が付いて顎を擦った。ひげは元から濃い方ではない。クロノに会うということで厳重に確認した成果で、どこにも剃り残しはなかった。
「……クロホン、相談いいか? プライベートなやつ」
「おう、構わねーぜ!」
クロノとのすったもんだも言ってみれば「プライベートなやつ」だったが、万一に備えてシライは記録を残してある。もちろん、クロノを守るためにだ。
未来を変えないためにシライが秘匿し続けたあれこれは既に済んだ。シライには、クロホンにすら話してはいけない情報というものがない。あるのは心理的なハードルだけだ。シライはプライベートモードに切り替わったクロホンを改めて見る。
「すごいことって……なんだと思う?」
シライ、二十六歳。元特級巻戻士。性交の経験はない。
機会はあった。機会と言うのも何だが、「あ、これはいけるな」と、経験のないシライでも分かるようなタイミングがあるにはあった。それも複数回。それでも、シライはその機会に乗っかることをしなかった。
シライの実力に裏打ちされた不遜一歩手前の自信ありげな態度は、ターゲットの救出に失敗した、能力が思うように伸びない等、進退に悩む巻戻士には効きすぎるほどに効く。才覚あるおかげで大抵のことがやればできてしまうシライの共感能力は地の底を這っていたが、長年そばに居続けたクロホンのおかげで、そこもそこそこ何とかなっている。巻戻士になる人間たちは皆揃いも揃って利他的な善良さを備えていて、おかげで、シライの見返りを求めない献身が不気味がられることもなかった。
いけそうな事象が起きた全ての機会において、シライは「でもおれはクロノが好きだし」と、付き合えるかどうか定かではない、付き合えば通報待ったなしの相手を思い浮かべて断った。おかげで、シライは今日まで純潔を通すことができた。
シライの出身時代よりもさらに未来である二〇八七年、セックスの経験の有無に対する人々の感覚は変化している。シライも経験がないことを卑下する気持ちはなかったが、声を掛けてきた相手の「当然経験があるだろう」という態度を前にして、世慣れたふりをしてしまったのは人情というものだ。それはシライに憧れる人間の夢を壊さないという意味では正しい対応で、シライはつい、クロノに対しても同じ態度を取ってしまった。
つまり、クロノはシライが性交の経験者だと思っている。
「心配することはねえぜ、シライ! さっきクロノがしようとしていたのがキスなら、『すげーこと』はセックスで大丈夫だ!」
「クロノがもっとすげーことを想像してたらどうするよ? 年齢で言ったら中学生だぜ? 夢がありすぎるだろ。クロノのやつ、がっかりしねえか?」
「シライはいい奴だな!」
「なんっ……なんでだよ」
流れでツッコミを入れかけたシライは、一旦停止して、考えてみてもクロホンの発言に思い当たるところがなかったために、ツッコミではなく本物の疑問としてクロホンに問い直した。
「クロノが傷付くことばかり気にして、自分は傷付かないと思ってる。毎回おれを起こしたままにしてるのもクロノのためだろ」
シライが誤魔化す気を起こさないくらいはっきりと言い切ったクロホンは、「なあシライ」とシライの目の高さまで高度を下げた。
「おれはクロノじゃなく、おまえのサポートAIなんだぜ」
すっかり聞き慣れているために気にならないはずのプロペラの音が、静かになった部屋で妙に耳に残る。シライは後続機であるスマホンたちとは違ってシンプルなクロホンの目を見ながら、考えている訳でもないのに黙り込んだ。
付き合ってしまったのはうっかりだとしても、別れないのは私欲を満たそうとはかる以外の何物でもない。シライは自らの過ちを認め、クロノに謝った。キスやセックスができないことが不満な訳ではないと、逆に怪しまれるくらい真剣に付け足して、クロノの裁定を待つ間、シライの胸にあったのは清々しさだ。
「おまえが十八になったとき、もしお互いまだ好きなら改めて付き合おうぜ。束縛する気はねえから、それまでに他に好きな奴ができてたらこの話はナシ。これがおれの言い分だ。イーブンだろ?」
交際というものは、片方が別れたいと思った時点で終わりだ。シライは別れたい訳ではなかったが、別れるのがベストだと思っているから、クロノがどれだけごねようと別離で押し切るつもりだった。
きっと別れたくないと言ってくれる。シライはクロノの思いを餞別がてらに受け取るつもりで、考え込んでいる様子のクロノが口を開くのを待つ。頭の中では気の早いエンディングムービーが流れ始めていて、走馬灯じみたそれは、どこを切り取っても思い出深い光景ばかりだ。
「……おれは束縛したい」
「は?」
巻戻士という職業は想定外の連続だ。
現場に出ることがなくなったとはいえシライの対応力は落ちていなかったが、クロノの突拍子のなさは時としてシライの予想を上回る。
「あと四年、キスもセックスもできなくていいから、このままおじさんと恋人でいたい。その間、おじさんは他の人のところに行かないでほしい」
決まりだ、と言わんばかりの宣言だった。あぐらをかいたクロノは、てこでも動かないとアピールするように腕を組んだ。この状態のクロノを説得する難度の高さを、シライは経験から知っている。
「おれの話聞いてたか、クロノ? 大体おまえヤりてえんじゃねーのかよ」
「おれはしなくても構わない。興味はあるけど、したことないからしてみたいだけだ。噴水やからくり時計が動くのを待つのと変わらない」
「じゃあなんであんなやる気だったんだよ」
告白を始めとして、恋人としての行動を起こすのはいつだってクロノからだった。シライはクロノとの交際において、待ちや守りが自分のスタイルに合わないのを承知の上で、展開をコントロールすることで保たれる年上の矜持よりも、クロノが望んだという言い訳の有効性を重視するきらいがあった。
「おじさんがしたそうにしてたから。さっき言ったけど、おれも興味はある」
シライの部屋にはデジタル時計しかない。換気システムは動いているものの、慣れすぎて音など聞こえない。音の発生源になり得るクロホンも、今はプロペラを止めてサイドチェストの上に伏せている。
「……クロホン」
「どうした! シライ!」
それでも、優秀な相棒は呼べば来るのだ。シライはクロノを部屋に呼ぶと決めたとき、電源は落とさないよう、スリープモードにも入らないよう言ってあった。
「おれの罪状をまとめて隊長にシュッと送ってくれ。それで出頭する」
- 投稿日:2025年2月9日