時を繕う(本文サンプル)
1
胴を狙った抜き打ちの一撃がゴローの横腹に当たり、避けられると思っていたシライは目を丸くした。今持っているのは刃を潰した刀だ。斬れないが、シライの膂力で振るうのだから、当たれば骨も内臓も無事では済まない。それを、シライのことをよく知るゴローが防具もなしに受けるとは思っていなかった。
だが、驚いている暇はなかった。
間髪入れずに頭上から落ちてくる拳を避け、間合いを取り直そうとしたところで、横からも拳が飛んでくる。徒手で戦っているがゆえの、武器を左右に持ち替える必要がない有利。体格差からなる筋力の差は明らかだ。シライはその場に踏みとどまることなく、素直に吹き飛ばされる方を選んだ。
シライとゴローの戦いは突発的に始まったわけではない。訓練室に導入する計測器の試験が目的の、計画的なものだった。会場である多目的室には、日頃研究室に詰めているスタッフも複数立ち会っている。
シライとゴローの戦闘に巻き込まれないために、ほかの人間はキャットウォークの上にいるのが最善だった。だが、スペースと電源の確保の問題で計測器をキャットウォーク上に上げられず、スタッフの一人が計測器と共に移動式プラットフォームの上に乗ることになった。プラットフォームを設置したのは入り口側。垂直に伸ばされた足場はキャットウォークと同じ高さで、シライとゴローの戦闘を観測しやすく、ゴローが武器に飛び道具を選びさえしなければ安全な位置だった。
そのプラットフォームのアームに、ゴローに殴り飛ばされたシライがぶつかった。スチール製のアームは歪んだが、転倒防止の固定具を備えた土台は揺らぎを受け止め持ちこたえる。派手な衝突音が反響する中、シライの耳は小さな悲鳴を捉えた。
着地したシライは、ゴローに対する警戒を打ち捨て、プラットフォームの足場を振り仰ぐ。こういう場合に、ゴローが攻撃してこないことは分かっている。
スタッフが、足場から落ちかかっている。
シライがぶつかった衝撃でずれたのだろう計測器に押し出される形で。
とっさに掴まろうと手を伸ばしてもいいようなものなのに、スタッフは腕を体に引きつけている。恐怖に顔を引き攣らせたスタッフの視線の先には計測器。手を伸ばして掴まれば持ちこたえられるかもしれないが、計測器がさらにずれれば、スタッフ諸共地面に叩きつけられる。
現状に対する理解と、なぜ助かろうとしないのかという反発、そして受容。
シライは垂直に伸びるプラットフォームのアームを足場目がけて駆け登った。刀身は既に鞘に収めてある。プラットフォームはアームが歪んでいるせいで安定を欠いている。もしシライが駆ける衝撃のせいで土台から倒れてしまっても、スタッフが地面に落ちる速度より早く跳べばいい。
スタッフに向かって手を伸ばしたシライは、ゴローが携帯の番号を読み上げる声を聞いて、計測器の無事はゴローに託すことにした。
当初から予定していた試験レポートに事故報告書が加わり、事後処理の作業量は倍以上になった。シライとゴローの戦闘の激しさが想定を上回ったこと、安全柵のロックが不完全だったこと、計測器に耐震マットを敷いていなかったこと――初めての試みにしても、なぜ先に気付かなかったのかという反省点がぽろぽろと出てきたが、それでも、確認は多目的室の予約時間内に終わった。
一通りの分析と反省が済み、緊張から解放されたのか、スタッフの一人がシライとゴローの戦闘の凄まじさと、間近で展開された救出劇について口にする。常ならぬ出来事が続いたせいだろう。その一言を皮切りに、スタッフたちは自分たちが目の当たりにした巻戻士の特異ぶりを語り出し、すっかり落ち着いていた空気は活気づいた。
シライは横目でゴローを見る。無事に終わったとは言え、もう少しで人死にが出るところだったのだ。口々に褒められても、シライは手放しでは喜べない。命より大切なものはない、と訓戒を垂れたばかりのゴローも渋い顔だ。
それに、今のシライは腹が痛かった。努めて平気な顔をしているが、戦闘の高揚感が収まった後、ゴローの拳が入った腹がじわじわと痛み出している。何も知らないスタッフたちは無邪気にまた見たいと言っているが、しばらくゴローとはやりたくなかった。やるなら鍛え直してからだ。
事故によりデータが中途半端になったとはいえ、予定された行程は全て済んでいる。事後処理も終わった今、シライにできることはもうなかった。
シライはスタッフたちの盛り上がりに水を差さないよう、一抜けを宣言する。去り際にゴローにだけ聞こえるよう負けを宣言すれば、ゴローも低い声で刀を受けた脇腹が痛むことを明かした。シライの一撃をまともに受けて痛いだけで済むとは、化け物じみた頑丈さだった。
「見分けが付かなくても痛み分けってわけか」
笑うと余計に痛むのか、ゴローはシライのギャグに無反応だった。
2
建材に吸音性の高い素材を使用しているために、巻戻士本部の廊下はあまり音が響かない。本部に来たばかりのシライは、テスト期間の放課後を思わせる廊下の静けさに、学校のように声高に話す人間がいないからだと解釈していたが、その認識が誤りだと知るのに時間は掛からなかった。ピークタイムの食堂やカフェ、行事があるときの多目的室など、人が集まる場所は巻戻士本部内であろうと賑やかだ。
内装に色気も味気もない一方で、廊下の反響にまで気を配るのは、閉塞感のある地下生活のストレスを軽減させるためか、それとも別の理由があるのか。シライは本部で暮らすようになって十年が経過した今でも、本当の理由を知らない。創設者であるゴローに聞けば教えてもらえるのかもしれないが、ふとした瞬間に疑問として浮かぶだけで、改めて尋ねるほど気になっているわけでもなかった。
地上階に向かうエレベーターに乗り込んだシライは、廊下以上に静かになったおかげで余計に大きくなった、耳鳴りのような違和感に耳を押さえた。
昇格試験のモニタリング中に、ヘッドホンが一時的な不調を起こしたのだ。クロホン経由で報告を入れた技術部門はジャミングの可能性を洗ってみると言っていたが、シライとしては大げさな対応だと思っている。クロックハンズは本部の場所を知っているのだ。今さら、盗聴のような小細工を弄する必要性を感じない。
とはいえ、実働部隊ではない彼らは彼らなりに、クロックハンズによる被害を未然に防ごうという気負いがあるのだろう。だから、シライは思ったことを口に出さず、進展があれば聞かせてくれるよう頼んだ。
任務に出なくなって三年。袖触れ合う人間の数は大幅に減ったが、量と質が入れ替わるように、以前は顔見知り程度だった相手との関わりが密になっていた。
軽やかな通知音と共に、エレベーターのドアが開く。
トーキョー中心部の角地という立地のせいか、表向きの本部のエントランスはデコイにしてはやりすぎなくらい華やかだ。エレベーターホールを抜ければ、普段は目にすることのない陽光が、通りに面した大きな窓から降り注いでいるのが見える。
シライは眩しさに目を細める。絶好の外出日和だった。
- 投稿日:2025年12月20日