あめつちほしそら

「経験がないことは恥ではない」
「何も言ってねえだろ!」
 いつも通りの断定系で言った斬月を一護は睨んだ。
 精神世界の中。斬月はビルの最上階に近い位置で、まるで生き物のようになびく裳裾の中心に立っている。
 信頼関係と呼べるものを築けた今でも、斬月が最初に現れる場所までの距離は、出会った当初と変わっていない。
 余人のいない空間といえども声を張って話したい内容ではなく、一護は斬月にもう少し近くに来てほしいと思った。しかし一護のことを文字通り生まれてからずっと見守り続けていた斬月を相手に、女性経験がないことを取り繕う意味はない。一護はそれ以上言うことを諦めて、苛立ち紛れに大きく息を吐いた。
 久しぶりの学び舎、久しぶりの馬鹿騒ぎ。
 尸魂界の面々とも馬鹿げた掛け合いはやっていたが、日常そのものである友人らと話すのは格別の楽しさだ。数々の特異な事象を経てもなお変わらず接してくる面々にもみくちゃにされ、一護の抱えていたわだかまりは一瞬で彼方へと押し流された。
 ――が、日常に身を置く仲だからこそ、重大事も変わってくる。
 現世や尸魂界、果てはこの世界そのものまで担ったことのある一護の両肩には、今は「童貞」の二文字が重く伸し掛かっていた。
「ならば私とするか」
「は?」
「経験がないことが不安なのだろう。一護、お前が曇ることを私は望まぬ」
 斬月の言葉を正しく聞き取った一護は、現実逃避から無意識に空を見上げた。
 心情はさておき曇る気配はなく、ところどころに白い綿雲が浮かんだ穏やかな青空が広がっている。
 いや、違う。
「そういうことじゃねえだろ! そうやってするもんじゃねえし!」
「果たすあてがあるのか?」
「ねえけど、でもそれは、ほら」
 好きなやつとするもんだろ、とごにょごにょと言った声は、臨戦時の一護しか知らない者ならば驚くような歯切れの悪さだ。
 言ったものの具体的に思い浮かぶ「好きなやつ」のない一護は、学校で言われたからかいを頭の中で反復し、うるせえという文句を声に出さないまま眉間に皺を刻んだ。
「それならば私の方は問題ない」
「なん……でだよ」
 一護の眉間に刻まれた皺に困惑が加わる。
「私はお前のことを好いている。ずっとだ。問題があるとすれば一護、お前の方にある。私が相手に適さぬと言うのならば身を引こう」
「適すも適さないも、斬月のおっさんはおっさんだろうが」
「若い方がいいか」
 瞬間、二人の脳裏をよぎったのは天鎖斬月の姿だ。
 一護は刃を交えていない時にまで相手の思考が読めるわけではなかったが、サングラス越しに合わせた目から斬月が同じことを考えていると察する。
「違う!」
 そして、思わず吠えた。姿が若ければいいというわけではないし、ついでに言うなら自分によく似た容姿をした斬月もごめんだった。体を乗っ取ろうとしているという認識こそ改まっているが、今までの経験を踏まえると、白い死覇装を纏う斬月がどんな教え方をするか想像は容易い。容易すぎるあまり脳裏に浮かんできた映像を一護は手を振って打ち払う。
「そりゃあ、俺だっておっさんのことは嫌いじゃねえよ」
 考えていることは元から筒抜けだ。一護はぐちゃぐちゃと言い訳するのが馬鹿らしくなり、眉間に深々と皺を寄せたまま、ひとまず斬月からの好意に好意を返した。何年も共に歩み、導いてくれた相手を嫌うわけがなかった。
「ならば決まりだ」
 そう言った斬月の声からは、滲み出すような安堵が感じられた。合わせられた瞳の穏やかさ。まるで与えられた役目をようやっと果たせるとでも言うような様子に、一護は喉まで出掛かっていた抗弁を飲み込む。
「――待てよ、斬月さん」
「ッ!」
 背後で膨れ上がる気配。振り返った先に抜き身の刀を引っ提げたもう一人の斬月を見た一護は目を見張った。一体いつからいたのか。目の前の斬月に意識を注いでいたばかりにまるで気が付かなかった。
「お前……っ! いるなら最初からいろよ!」
「うるせえ。俺も出る気はなかった」
 決まりの悪さからつい大声になった一護の抗議を、白い斬月はしかめ面で受け流す。見据えているのは一護を挟んだ向こう側、黒い斬月だ。
「言ってたことと違うじゃねえか。元はこいつが流されて妙なことにならないよう釘を刺すって話だったろ。あんたが流してどうすんだ」
「…………」
「だんまりか?」
「……欲は初めから備わっているが、交わり方は学ばなければ身に付かない」
「いきなりすぎんだよ。そもそもやる前提で進めんな」
「……一護」
 しばらくの沈黙の後、一護の肩越しに斬月と見合っていた斬月が、再び一護の方を向く。身構えた一護が後退しなかったのは二人の教育の賜物だ。
「いついかなる時でも中断できる。一度受けたからといって気負う必要はない。私からお前への信頼は、そんなことで損なわれるものではないのだから」
 微動だにしない斬月とは反対に、すたすたと軽い足取りで一護の斜め前まで歩み出た斬月は、そうじゃねえんだよ、とばかりに溜め息を吐いた。
「好きだからってやらなきゃなんねえ道理はねえ」
「それが本能でもか?」
「俺たちの王はひとりだけだ。当代限りで何の不足がある」
 かつて自分が一護に向けた単語を向けられた斬月は、当て擦りとも取れそうなそれを気にした風もなく即答する。
「おい」
「てめえは黙ってろ」
 一護の不服の声を聞いた斬月が、声と背中に不機嫌を纏わせる。
 しかしそれに怯む一護ではない。
 斬月の声の調子から真面目な回答であることは察せられたが、一生童貞で構わないと言われるのは違う。一護は死覇装の背中に文句を投げつける。
「つったって俺の話だろうが」
「今ここで答えを出すことじゃねえって言ってんだ。てめえがやりてえのは分かった。だが今すぐにする必要はどこにある?」
「いや……それは、そう……だけどよ……」
「分かったなら帰れ」
 振り返らないまま追い払おうとしてくる斬月をとりあえずそのままに、一護は先にいた方の斬月を見た。
 助けを求めたわけではない。兄としての習い性だ。妹二人を持つ身としては、いくら納得がいったからといって、片方だけの言い分を聞くわけにはいかない。
「私は結論を急ぎすぎた。ここは一度引いてくれ。お前の望むようにすることが私の望みだ」
 おっさんそれはずりぃだろ、と思いながら一護が瞬くと、目の前の景色は自室の壁に変わっていた。


   ◇


 意を決して入った精神世界の中で、一護は黒い斬月を見据えた。
「おっさん自身はどうなんだよ」
 セックスに興味がある。
 いずれはしたいと思っている。
 するなら相手は女だと思っていたが、斬月を相手にするのが嫌だということはない。
 ――それが刃禅ではなく、坐禅の真似事をしながら考えた一護が出した答えだった。
 経験の有無などどうでもいいと開き直れない自分と違って、斬月は見てくれ通りに大人なのだから、セックスに対して一護のような考え方をしているわけではないだろう。例えば遊子に求められた一護が買い物に付いていくように、何の気負いもなく日常の一端としてできるものなのかもしれない。
 だが仮にそうだとしても、きちんと意志を確認しておきたかった。一護は拳を握った。
「俺のためとかそういうんじゃなくて、斬月がどうしたいかを聞きたい」
 今までの経験とは別種の緊張感を覚えながら、一護は自分を見ている斬月が静かに瞬くのを見つめる。気を利かせたのか、探ってみてももう一人の斬月の気配は感じられなかった。
「私はお前と交合したい」
 明瞭すぎる答えに一護は呻いた。
 一護はいつも通りの立ち位置から動く様子のない斬月を見ながら、きゅっと嫌な縮み方をした心臓が、年齢に似合わない不整脈のような打ち方をするのをなだめる。
 あまり負荷を掛けすぎると、白い斬月が一護の危機と判断して出てきてしまうかもしれない。前回はさておき今回は完全に自分の責任だ。姿を見せないだけで思考も会話も筒抜けだろうが、今この場で顔を合わせたくなかった。
「一護、お前は思い違いをしている。私は、私が望むことしかしていない。お前の望みを何でも叶えてやりたいというのは、ただの私のわがままだ」
「そうかよ……」
 会話を終えても逸らされることのない斬月の目に、他に聞きたいことがあると見透かされているのを感じて、一護はすいと目を逸らした。
 斬月から提案を受けた日からずっと、男同士でどうやってするのだという疑問、もとい興味が、心の中にドーンと腰を据えている。男女の性交ですら児童向けの絵本でなぞっただけの曖昧な知識なのだ。男同士の方法など、斬月に尋ねる以外に知る術を思いつかなかった。
 一護は気づいていなかったが、今や一護の興味は童貞を捨てることではなく、斬月とセックスすることに主軸を移しつつあった。コウノトリだとかキャベツ畑だとかの子供だましを言うこともないだろう、という信頼もある。
 一護はもう一度斬月を見た。
「……最初に言ったけどよ、俺もおっさんも男だろ。どうやってやるんだ?」
「性交の方法は一つに限らないが、感覚を膣性交に近づけるのならば肛門を使う。膣口に見立てた肛門に、勃起した陰茎を挿入するということだ。この場合は直腸が膣の役割を担う」
 滔々と語られた直接的な単語のオンパレードに絶句した一護に向かって、斬月は心得ているとばかりに頷いた。
「案ずることはない。私は食事を摂らない。排泄もしない。私の肛門は今――お前のためにある器官だ」


   ◇


 平然とビルの外壁で始めようとする斬月を屋内に引き込むべく、手近な窓に手を掛ける。高層ビルの窓らしからぬカラカラと音のする横スライドで開いた空間に飛び込んで数秒。落下の末に着地したのは、見覚えのあるベッドの上だった。
「は?」
 勉強机に、押入れ。隙間なく埋まった本棚。
 見た目が自分の部屋そのものであることを訝しみながら、一護が今しがた通ってきた窓を探して天井を見上げると、現実よりもずっと高い位置に、天窓として青空を覗かせていた。
「なんだ、ここ……?」
 天地が正常に機能していようとも、精神世界の中であることに変わりはないらしい。ベッドのすぐそばにある窓の外には、横倒しになった高層ビルが海原のごとく広がっているのが見えた。
 誰かに答えを求めたくとも、この世界の変化は自分の心以外に原因がない。屋根も壁もない青天の下でするのは確かに嫌だし、ベッドはないよりある方がいい。
 完全な納得とはいかないまでも、自分の部屋とそっくり同じだという気楽さから自然と力を抜いた一護は、ベッドに腰を下ろした。布と見紛う精巧な彫刻だったなんてことはなく、見知ったマットレスの感触だった。
「斬月」
 一護は壁際に立っている斬月に向かって、自分の隣を叩いて座るよう促した。腰掛ける斬月というのは見たことがなかったが、座れないということはないだろう。
 ここからどうすればいいのだろうか。
 もしかしなくとも脱いだり脱がしたりしなければならないのだろうが、手順はかなり心許ない。
 考えているうちに座面が沈み、斬月が座ったことを知る。招いておきながら今すぐ立ち上がりたくなった一護は、衝動をこらえるべく、いつの間にか草履が消え、足袋だけになっている足先を注視した。用もなく訪れたことがないせいで、動きもせずに黙っているのは初めてのことだ。
「斬――」
「一護」
「ッ、おう」
「先の繰り返しになるが、いつでも中断できることを忘れるな」
「分かってるよ。……斬月もちゃんと言えよな」
「私がお前との行為を厭うなど」
 斬月の返事を聞いた一護は顔を上げ、斬月と目を合わせた。
「嫌がることはしたくない。言ってくれ」
 教えたくないと渋る天鎖斬月から、最後の月牙天衝を聞き出した前歴がある。どれだけ拒みたいと思っていても、斬月は最終的には一護の望みに従ってしまうだろう。それを望まないという意思表示。不完全であろうとも、できるだけのことはしておきたかった。
「……承知した」
 一護の勢いに押されたわけではないだろう。ふっと笑むように空気を緩めた斬月は、一度一護から目を逸らした。遠くを眺めるような顔で中空を見上げ、それから一護に視線を戻す。
「触れても構わぬだろうか?」
「おっ……おう」
 斬月の右手が、まるで脆いものに触れるようにそっと一護の頬に触れる。イメージしている人の体温よりもいくらか低い、空気が確固たる形を持ったような不思議な温度だった。遠慮がちに左の手も伸ばした斬月が感嘆じみた息を漏らすのを聞いて、一護は眉間に皺を寄せた。
 自分の頬を意識して触れたことはない。それでも柔らかいとか、心地いいとか、そういう手触りではないことだけは確かだ。なのに斬月はとんでもなく良いものを触っているような、両親が妹たちに向けていたものを重ねてしまいそうなくらいの、愛しくて堪らないという目を向けてくるのだ。
 一護がむず痒さに耐えられなくなる寸前、斬月は一護の頬を解放して、片手で肩を軽く掴んだ。友人同士で肩を抱くような気楽な力加減。それでようやく人心地がつく。
「おっさん……」
 非難と呆れを乗せた一護の視線を受け止める斬月に、気にした様子は全くない。
「すまなかったな。おかしな触れ方をした」
「別に、嫌だったわけじゃねえけど……」
「そうか。……緊張する必要はない。今からするのは予行のようなものだ。そもそも性行為は成功と失敗の二つに分けるものではない」
「そう簡単に落ち着けるかよ。そりゃあ、おっさんは慣れてるだろうけどよ」
「買いかぶりだ。私の唯一に触れるのだ。緊張せずにいられるものか」
 そうは言っても緊張をかけらも感じない触れ方をされたばかりだ。胡乱なものを見る目を向けた一護に応えるように、斬月は目を合わせてゆっくりと頷いた。
「言うのが遅れたが、相手を私と意識しない方がいいだろう。目は閉じておくといい」
「何言ってんだよ、それは違うだろ」
 まさか早々に承服できないことが起きると思っていなかった一護は口を尖らせた。斬月は不思議なことを聞いたように怪訝な顔をする。
「私を相手に欲を抱けると言うつもりか?」
「ンなのやってみなきゃ分かんねえよ」
 挑むように一護は言った。


   ◇


 なす術もなく、またその必要もなく。
 死覇装を脱がされる過程で要所要所――と言うのが正しいのか、とにかく経験のない一護ですらそれらしく感じる箇所――に口づけられて、一護はいや増す居たたまれなさに目を泳がせるしかなかった。
 斬月は威勢の消え失せた一護を笑うようなことはなく、一護の目には全く平常通りに見える冷静さで、下着から取り出した一護の陰茎を握り込む。これまで恥ずかしさと捨て切れない意地で声を出すまいとしていた一護も、知らないではない感覚には流石に声を漏らした。
「不安か?」
「……いや」
 一護は目を逸らしながら小さく首を振った。
 頭をよぎったのは不安ではなく、かつて斬月が斬魄刀の柄に手を添え支えてくれた日のことだ。
 斬月の手は今もなお一護のものより大きく、一目で男の手だと分かる造形をしている。その手が一護に目的を果たさせるために、まだ体温の延長程度の熱しか持たない陰茎を昂らせるべくしごいてくるのだ。
 自分が斬月に向ける気持ちはそういう好きではない。
 斬月が自分に向ける気持ちもそういう好きではないだろう。
 始めてから今まで捨て切れずにいた罪悪感が、与えられる快感の輪郭がはっきりとするほどに薄まっていく。最初に吸われた時はくすぐったさが勝っていた首筋へのキスも、今は明確に気持ちがよかった。
 流れるようにベッドから降りて脚の間に跪き、陰茎を口に含もうとした斬月をベッドの上に引きずり戻したのを皮切りに、乳首を舐めようとするのをやめさせたり、脱がせようとして断られたり。映画で見るラブシーンとは程遠いすったもんだを挟みながら進めた末に、一護の陰茎は挿入可能な硬さを持つに至った。
 主導権ごと一護の陰茎を握っていた斬月が、自らの認識に間違いがないことを確かめるように根元からしごき上げ、だめ押しに先端をくるりと撫でる。そのまま続けられると出てしまいそうで、一護は尻をベッドに押し付けて堪えた。
「…………一護」
 安堵を含んだ吐息の後、斬月が発した乞うような声。
 体を内側から炙られているような羞恥心を抑えて、どうにか斬月と目を合わせた一護は、斬月が声から受けた印象通りの顔をしているのを見てうろたえた。
 斬月からされるようなことを返せる余裕がなく、情けないくらいされるがままになっている自覚があった。だから切羽詰まっているのは自分だけだと思っていたのだ。肉体に与えられる快感に由来したものとは別の、他者に必要とされる熱を肌で感じて、一護はごくりと喉を鳴らす。
「私がよいと言うまで目を閉じていてほしい」
「まだ言うのかよ。俺は気にしないって言ったろ」
「そうではない。見せたいものではないのだ」
「俺だって見せたいわけじゃないからな!?」
 一護の死覇装はそのことごとくを脱がせられたのだ。手つきこそ恭しさを感じるほどに丁寧だったが、出自を思えば斬月は死神の服が嫌いなのかもしれない――とよぎるほどの徹底ぶりだった。おかげで今の一護は足袋すら履いていない。
 思わずツッコミを入れた一護に、斬月は和ませた瞳を伏せて首を振る。
「お前のように廉恥の心があって言うのではない。私はお前の意気を挫きたくないのだ。……少しの間でよいのだ、閉じていてくれ」
 今更だと言おうと息を吸った一護は、脳裏で閃いた記憶に息を止めた。
 修学旅行の夜。大浴場で明らかになったチャドのサイズに、同級生たちの声にならない声がさざなみのように広がったことを思い出したのだ。
 斬月の上背は一護はもちろんチャドよりも大きい。男性器の大きさは身長と正比例するわけではなかったが、一護のものを見た上で言うのだから〝そう〟なのだろう。それも、一護の自信喪失を慮るほどに。
「……分かったよ、斬月。でも俺は斬月がどうであろうと、本当に気にしねえからな」
 一護は手を伸ばし、斬月の肩に触れた。一瞬驚いた顔をした斬月は、肩に乗った一護の手に手を重ねて頷いた。合わせられた目の和らぎが増している気がした。


   ◇


 ぬるりと導き招かれた斬月の中は温かだった。
 今までも斬月に対して温かさを覚えたことはあったが、こうも明確に体温らしいものを感じるのは初めてだ。散々触れてきた斬月自身の手の温度よりも高く、包み込むような感触も相まって、ぬるま湯に浸かっているような心地よさがある。
 閉じた瞼の裏では光の残骸がちらついている。一護は斬月の立てる衣擦れの音を聞きながら、合図がくるのをじっと待った。
「――待たせたな、もう目を開けても構わぬ。……平気か?」
 斬月は一護の沈黙を不快感からくるものと思ったわけではないだろう。それでも問い掛ける声には心配が滲み出ている。
 言われて目を開けたものの、いざ見るとなると気後れする。それでも好奇心には勝てず、頭を枕から離した一護は、予想に違わず気遣わしげな色を浮かべている斬月の瞳を見て、目を逸らすように視線を下げる。男と意識せざるを得ない部分を見せないためにか、影が伸びたようなマントの裾が一護の下半身を覆い隠し、ベッドの上を這っていた。
「斬月こそ大丈夫なのかよ。その……もの入れるとこじゃねえだろ……?」
「私は問題ない。……動いてもよいだろうか? そのままの体勢を続けるつもりなら、布団を背当てにするといい」
「お……おう」
 繋がった部分が見えなくとも、自身が斬月の中に入っていることは体感として分かる。斬撃に重さが乗っているのだから斬月にも体重はあるのだろうが、ベッドについた膝から逃しているのか、乗られている感覚はあれども重いとまでは感じない。
 一護の承諾を機に、斬月はゆるやかな動作で動き出した。繋がった部分から聞こえる濡れたような音。腰を揺らす斬月の呼吸を無意識に追い、手を伸ばす決心がつかずにシーツを撫でてから拳を作る。
 最初、斬月が目を瞑っているように言ったのを断った。いくら本人の申し出であっても、相手が斬月であることを意識の外に置くというのは斬月をないがしろにするようで、できない相談だと思ったのだ。二度目に言われた時には渋って、それから受け入れた。今その制限はなかったが、現実には恥ずかしさからなかなか斬月の顔を見られない。
「う、おっ!?」
 陰茎を包んでいる柔肉がぎゅうと狭まり、根元から先端へとゆっくりとしごき上げられる。二度、三度と、じれったいようなスピードで刺激を繰り返されるにつれ、コンがどこからか入手してきたエロ本の写真に頭を占拠されそうになった一護は、認識を正すために斬月を見た。
 ぱちんと交わった視線。驚いたのか、わずかに見開かれた斬月の目。連動したように締め付けの強まった結合部。ぎゅうぎゅうと絞り上げるような動きに変わったのは意図したものではなかったらしく、様子を確かめるように下を向いた斬月の表情は、珍しいことに焦りが見て取れた。
「わ、悪ぃ」
 見ただけ。見ただけだ。
 一護は女子の下着の線が透けて見えたような気まずさを覚えて、再び目を逸らした。見たものは他でもない、見慣れた斬月の顔なのに。
 斬月とセックスしている。
 斬月が、自分の上で腰を振っている。
 最初は色んな意味を含めてあり得ないと思っていたことが現実に起きていて、しかも否定しようもない実在感と快感を伴っている。顔が火照っている以上に、下半身の熱が露骨に上がっている。
「…………一護」
 低く呼び掛ける声はいつも以上に抑えられて、何の感情も読み取れない。そこまでまずいことをしたとも思えなかったが、タイミングとして、劣情を抱えた身に湧き上がる後ろめたさは並々ではない。
 一護が恐る恐る斬月の顔を見ると、斬月は予想に反して途方に暮れた顔をしていた。
「見様見真似でやり通すつもりだったが、私はあまり得手ではないようだ。すまないが、動いてみてはくれまいか」
「俺が」
「ああ。そのまま体を起こして、私と体の位置を入れ替えてほしい」
 言って、進む方向を示すように一護の首の後ろに触れた斬月は、一護が動きやすいように腰を浮かせた。言われた通りに起き上がった一護は、斬月を組み敷く体勢にそろそろと移行する。
「……そうだ、上手いぞ。私の腰の横に手をついて……っ」
「悪い、痛かっただろ」
「……いいや、問題ない」
 手足の移動はできるが、繋げた部分まで気が回らなかった。抜いてからやればよかったと思っても後の祭りだ。柔らかいのは内臓だからだ。傷つけやしなかったかと、一護は恥ずかしさも忘れてベッドに横たわる斬月の顔色を確かめる。
「案ずるな。私がこの内なる世界でお前に手傷を負わされたことがあるか?」
「言ってる意味は分かるけどよ……そう言われんのは癪だな」
「悪く思うな。私にいつでもお前を受け入れる準備があるというだけのことだ」
 体勢を変えることに意識を集中させたおかげで、高まりすぎていた衝動は少し落ち着いていた。斬月の下半身がどうなっているのか気になるのは気になるが、見せたくないと言われた手前、気が咎めて覗き込めない。包み込んでくる温かさも柔らかさも変わらず、うっかり腰を進めた時にぎゅうと締まったのだから、未だ斬月の中にいるのは間違いないのだろう。
「痛かったら……あ、いや、痛くねえのか……」
 一護はがしがしと頭を掻いた。元々勝手が分からない上に、斬月のマイペースさも加わってペースを掴むことがまるでできない。ひとまず今できることとして、自分の側にあった枕を掴んで斬月に押し付ける。
「私はお前の不安を拭い、自信をつけさせたいと思ってこの行為を望んだのだ。慮る必要はない。お前が苦痛も憂いも感じていない、それで私は満たされる」
 サングラスから透ける斬月の目は、眩しいものを見ているかのように細められている。
 自分の心のことだ。どう思っているかなど、窓の外の天気を確かめるまでもない。一護は斬月が見ているのがはるか上にある天窓ではなく自分の顔だということに面映ゆさを感じて口を尖らせて、吸った息を溜め息に変えて吐き出した。
「じゃあ……もし気持ちよかったら言ってくれ」


   ◇


 斬月の表情はどう見てもつらそうだった。我慢しないで言ってくれと伝えた時、眉をひそめた斬月は、応とも否とも言わずに目を逸らした。一護の望みに応えようとしたのか息継ぎか、開いた口をそのまま閉じてそれきりだ。
「斬月……っ」
「……っ!」
 一護が名前を呼ぶたびにきゅうと締まる内側。喉奥に飲まれて出ない声。瞳だけは一護を真っ直ぐに見つめてきて、こうなると拒まれているのか受け入れられているのか分からない。嫌なら言うという約束をよすがに狭まる壁をこじ開けて、まとわりついてくる肉襞を引きずるように抜き挿しする。斬月の意思ではどうにもならないらしいびくびくとした震えが、陰茎に伝わり一護の快感に変わる。
「…………っは、」
 ただ走るよりも余程疲れる。疲れているのに気持ちいいということだけははっきりしていて、頭がふわふわしてくる。異常な状態だ。やめられない、やめたくない。自慰と違うのは相手がいるということだ。それも今後も顔を合わせる、今後も会いたいと思っている相手が。初めてで上手くいくはずないと分かっている。だが、これでは斬月におんぶに抱っこすぎる。
 息を整えるために動きを止めて下を向いた一護は、汗まみれのうなじをいたわるように撫でられて顔を上げた。
「一護」
 今まで聞いた斬月の声の中で、一番甘い声だった。
 額に張り付いた髪を掻き分け撫でつけて、耳介をくすぐってくる長い指。少しざらついた指先をひんやりして心地いいと感じるのは、自分の熱が上がりすぎているせいか。答えが出ないうちに、息を整え切れずに半端に開いている唇を、親指でなぞられて背筋がぞくりと震えた。
「斬――」
 話さなくていいとでも言うように、斬月の指が唇を塞ぐ。どうすればいいか分からずに、一護はそのまま斬月を見つめた。斬月の内側は別の生き物のように一護の陰茎に吸い付いていたが、心にあるのは始める前に頬に触れた時のような慈しみなのだろう。とろりと溶けた眼差しに欲を読み取ったのは、それこそ自分の欲が見せた幻に違いない。
「気持ちいいか?」
「う…………っ、……おう……」
「何よりだ。私も気持ちがいい」
「うそだろ」
「嘘をつく必要がどこにある」
 反射的に言ったことは即座に否定された。止まっている動きを急かすように、斬月の中が一際強く収縮する。ぎゅうぎゅうと締め付けてくるそこを陰茎で掻き分けて、思うさま動きたい衝動。無防備な柔らかい肉を突いて、突いて、揺さぶって、斬月の声を引き出して――。
 煽り立てられたように勢いづいた劣情を、一護はシーツを握ってこらえた。引き込むような動きに伸るか反るか、運任せにするよりも答えがほしくて、一護は斬月を見続ける。
「……続けないのか?」
 斬月の手が頬に添えられる。
「だって」
「どう言えば伝わるのだ。当初の私の態度がお前を不安にさせたことは詫びよう。感じているものが性的興奮であると、すぐには確信が持てなかったのだ。……一護、私はお前の陰茎が私の肛門を貫き、亀頭が腸壁をこするたびに快楽を覚えている。……否、お前が貫いているというのは正しい表現ではない。私自らお前を受け入れて、それから一度も離していないのだから。私の肛門に咥え込まれたお前の陰茎が――」
「もういい! 分かった! 分かったから……」
 黙ってくれと言えば、斬月は完全な沈黙を保つだろう。一護は自分のうかつな発言がとんでもない事態を招くことを恐れて、慎重に言葉を探した。
「続けていいんだよな?」
「ああ、続けてほしいのだ」
「気持ちいい……んだよな?」
「無論だ。私がどう感じているのか、必要ならばお前が信じられるまで言葉を尽くそう」
「……やり方、は、これで合ってるのか?」
「お前と私が納得しているのならば、どういうものであれ間違いということはない。だが……そうだな、私は今回、行為に明確な目的があるがゆえに、陰茎の挿入と射精を目標と位置づけている。余人と関係を持つ場合は、何がしたいか、何をしたいかを相手と話すといい」
「斬月」
「すまない、今この先を言うのは無粋だったな」


   ◇


「どうだったよ、初めてのセックスは?」
「…………よく分かんねえ」
「そうかよ」
 話しかけてきた時の語調はからかう気満々に思えた斬月は、意外にも一護の答えを茶化さなかった。ビルの壁面にあぐらをかいている一護の隣に立ち、同じ方向を見る。長くこの世界にいるとはいえ、一護に見えないものが見えているわけではないだろう。
「斬月さんはどうした? まさか潰れてんのか?」
「……後始末してから戻るって」
「はっ、中に出したのか」
「……うるせえ」
「外でやるときは気をつけろよ。お前の得物が腐れ落ちる分にはどうとでもなるが、体の外のことはどうにもできねえ。あの人はそのへん言わねえだろうけどな」
「……おう」
 一護は痛むわけでもない首の後ろに手を当ててうつむいた。汗はとうに引いている。こっそり隣を見ると、話し足りないわけでもあるまいに留まっている斬月は、うつむく一護の代わりのように無言で空を見上げている。
 別に、落ち込んでいるわけではないのだ。後悔もしていない。その証拠にビル群を覆っているのは何の変哲もない青空で、風もほとんどない。
 ただ、別れ際に斬月が役割を終えたような言い方をしたのが気にかかっているだけだ。当初の目的は達成したのだし、いつかのように姿をくらます気ではないことも分かっている。何の問題もないはずだ。なのに。
「急いでするもんじゃなかったろ」
「……なんでお前は分かってるんだよ、俺のくせに」
「親父から聞いただろうが。俺はお前よか長く生きてんだよ」
 自分ばかりが子供なのだと言われたようでつまらない。だがそれを口にするのも子供じみている気がして、一護は口を噤んだ。口にしなくてとどうせ伝わっている。その甘えを許されていることが、心地よくないと言えば嘘になる。
 やっぱりガキなのかもしれない。
 一護は首から手を離し、膝を一つ叩いて立ち上がった。斬月と同じ高さから見る景色は、似たようなビルが続くといえども、座って見るよりずっと開けている。
「…………斬月のおっさん、遅えな」
「日誌でも書いてんだろ」

投稿日:2024年4月4日
原作のシリアスの中に突然挟まるギャグシーンが好きなのでコミカルな描写を入れてみたのですが、元の路線に戻すの難しくて、久保先生はすごいと思いました。