『Taskmaster (2002)』『Agent X (2002 - 2004)』をベースにしています。

一夜漬け

「待って、トニー」
 サンディはトニーの胸を押した。セックスを中断するにはかなり際どい、だからこそ後がないタイミングだった。流されたがっている体をベッドから引き剥がし、キャミソールの紐を肩にかけ直す。
 トニー・マスター。それが最初に教わった男の名だ。サンディが最近足を踏み入れた“世間”ではタスクマスターとして知られている。初めて関係を結んだ日、マスクの下に素顔があるように名前にも本物があるのかと尋ねると、男は本名もトニーなのだと答えた。真偽の程は不明だが、呼び慣れていることもありサンディはトニーと呼び続けている。
「どうかしたか?」
「あなた……私に謝りたいことでもあるの?」
「何もないさ」
 トニーは思ってもみなかったとでも言うように眉を上げた。潜入も手掛ける一流の傭兵が騙す気でいるのなら、サンディに嘘を見破ることなどできないだろう。それなら不自然さはありきたりな理由からではないか。見定めようとするサンディに、トニーは当惑しながら同じ言葉を繰り返した。
「本当だ、何もない。きみこそどうしたんだ」
 ためらいがちに肩に触れてくる手は温かく、グローブなどでは決してない。サンディはその上に自分の手を重ねた。厚みのある手は見た目の無骨さを裏切って驚くほどに器用だ。
「変に……その、回りくどいでしょう?」
 ことの進め方がいやに丁寧だ。もちろん嫌なわけではないと補足しながらサンディが指摘すると、トニーは明らかにホッとした顔をしたが、サンディの疑問は解決していない。ロマンチックなムードは好きだし、初対面の印象を途切れさせずに継続していたのならば素直に夢中になれただろう。だがタスクマスターとしての顔と素顔――マスクをしていないという意味でなく――を知った今となっては、メロドラマの演出のような完成度の高さに奇妙さしか感じない。説明するまで放さないつもりで、肩に置かれた手を下ろさせる。ポーズだけ見ればまるで喧嘩の理由を聞く親だ。トニーも似た感想を抱いているのか、叱られる子供のように気まずそうにサンディの指をもて遊んだ。
「……俺とのセックスは退屈なのかと思ってな。前に、乗り気じゃなかったようだから」
 続けて何を参考として観たのかが聞こえたが、サンディは聞かなかったことにした。関係を発展させるために恋愛ドラマを見ていたと言われたときより反応しづらい。トニーの持つ能力に対する忌避感は全くないが、フォトグラフィック・リフレクシズを日常に織り込むのは料理をするときくらいにしてほしいものだ。
 確かに乗りきらない日もあったかもしれない。疲れていたとか、気分じゃなかったとか、交際する上でありがちな行き違いで、今の今までサンディは気にも留めていなかった。トニーの考え過ぎと片付けるのは不誠実だろうか。しかし女慣れしていないようには決して見えず、むしろ出会い方や暮らしぶりからすれば遊び慣れていてもおかしくない男がこうも不器用だと誰が思うだろう。
「あなた本当にトニーなの?」
 手を伸ばして触れた頬は、手と同じく人間の肌の感触だ。出会ったときとは別人で、しかしあの時と同じ表情を作る顔。本気で疑ったわけではなかったが、前々から不思議に思っていたことを口にしたサンディの目の前で、トニーがあからさまに動揺する。何かを言おうとする唇を人差し指で押さえ、サンディはわざとらしく首を傾げる。
「私はトニー・マスターの重大な秘密を握っていて、彼に化けたタスクマスターに探りを入れられてる?」
「フィクションの見過ぎだ!」
 憤慨するトニーを見てサンディは吹き出した。
「あなたほどじゃない」
 笑いながら手を引こうとすると、トニーは先程までとは打って変わった素早さでサンディを抱き寄せた。あっと思ったときには視界が反転している。見上げた顔はまだ何か言いたそうにしていたが、少なくとも女性向けポルノを再現する気ではなさそうだった。

投稿日:2020年1月4日